みのもんた氏の次男が窃盗未遂容疑で警視庁に逮捕され、みのもんた氏は報道番組系の出演を自粛している。

窃盗未遂容疑

窃盗未遂容疑

 
毎朝見ていた番組の主役がいなくなり、寂しい限りである。
 
なにせ、深夜ラジオからおなじみの人だ。
 
軽い語りの中に、時折の見せる昭和の男の考え方に、何処か共感を覚えていた。
 
「こんな先輩がいたな」
 
そんな、親近感が魅力だった。
みのもんた

みのもんた

 
 
番組に出なくなり、ネットには様々なニュースが流れ、「親の責任」の是非が載っている。
 
当然、法的には「親の責任」など無い。
 
責任をとるのは当事者である。
 
 
ここで言う責任とは「社会的責任」の事だ。
 
人間が社会的動物である以上、繋がりの中で生きているのは間違いない。
 
大昔から、近親者の不祥事は「連帯責任」を強要されてきている。
 
裏を返せば、血族の連帯意識の強さが指摘されるだろう。 
 
「一蓮托生」は現実なのだ。
 
 
「親の背を見て子は育つ」のとおり、子供の性格は同じDNAを半分持つ親に影響を強く受ける。
 
「這えば立て、立てば歩めの親心」
「親の甘いは子の毒薬」「親馬鹿ちゃんりん」
親のしつけが、いかに大事か・・。
 
「親の欲目」「親の七光り」
社会に出ても、これでは子供は1人前にならないだろう。
 
その結果
「親の意見と冷や酒は後で効く」
になっちまう。
 
しかし「親の思うほど子は思わぬ」が現実か。
 
これは外国でも同じだろう。
 
しかし責任の取り方は違うと言われる。個人主義と集団主義の違いが顕著である。
 
「ムチを惜しめば子供はだめになる」これが欧米人である。
 
 
何処かのブログに書いていたが、名前の表記にその違いが現れるという。
 
「田中 一郎」の場合、田中家の一郎さんである。
 
欧米の場合「一郎 田中」である。ここでも個人が最初に出てくる。
 
 
 
責任が有る無しではなく、芸能界に籍を置くみのもんた氏には、風評が強く当たるだろう。
 
彼なりの身の処し方が、
 
細川ガラシャの辞世の句
「(散りぬべき 時知りてこそ)世の中の 花も花なれ 人も人なれ」なのだ。
 
細川ガラシャ

細川ガラシャ

 
自分の意見を通すのではなく、世間の気持ちをくみ取ったのだろう。
 
そして今身を引くのが最善と考えたのだと思う。
 
 
しかし、世間では「何故責任をとらないんだ」と突きつけられていることがある。
 
「戦争責任」である。
 
「責任をとっていない」と日本は攻められ続けている。
 
 
私は戦争を知らない。しかし私の行動や気持ちに関係なく、攻められ続けてしまう。
 
戦争だけではなく、偏見や差別も、その問題に関わっていると思う。
 
 
人間は感情に支配されている。理性では関係ないと思っていても、「感情」がいうことを聞かないのだ。
 
人を愛するのも「感情」、憎むのも「感情」である。
 
「感情」をうまくコントロール出来るように、私たちは努力したいものだ。
 
 
「子は親を選べない」と言うが「親も子を選べない」
 
子供の引きこもりや、非行、犯罪で、親は強い「責任の感情」を覚える。
 
親だから、しょうが無いのだろうか。