荘子 受け身こそ最強の主体性

荘子(そうじ 紀元前369年 - 紀元前286年)は、中国の戦国時代の宋国の蒙に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。荘周(姓=荘、名=周)

 

荘子を読めば素晴らしい言葉が多いのだが、処世訓というより哲学に近いと感じる。

荘子 内篇 (講談社学術文庫)

荘子 内篇 (講談社学術文庫)

 

たとえば「胡蝶の夢」

夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。

 

この話は「万物斉同(ばんぶつせいどう)」を現わした話しであり、意味は世界には実は一切の区別などなく、すべては「同」であり「無」であるとという。

荘子の胡蝶の夢は、自分と蝶が同じではないかという発想である。

人だけではなく、すべてのものが等価であるという意味だ。

「道」という概念はとらえどころがなく難しいが、ものの区別や評価が常に相対的であらわされていることはわかる。

 

うまい、まずい。美醜、善悪、貧富。それらはすべて相対的な表現である。

片方がなくなれば、もう片方がなくなってしまう。

つまり、優越感や劣等感、ものの上下など幻なのだ。

「万物斉同」の考えは、まぼろしの世俗的な価値にとらわれ、つまらないことで悩んだり、争いを続ける人間の愚かさを笑い飛ばす心境である。

 

 

最近、仲間と酒を飲んだが公務員の退職金と年金がうらやましいという話題になった。

いいとは思うが、他人の金である。どうでもいい事だ。

銀行にどれだけ金があっても自分には関係ないのである。

他人と比べて、自分の幸せ、不幸せを推し量ろうとする愚かしさを荘子は嫌う。

木鶏(もっけい)という言葉がある。木彫りの鶏の事だ。

紀悄子という鶏を育てる名人が王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。

10日ほど経過した時点『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。

更に10日ほど経過『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』 

更に10日『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。

さらに10日経過『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。

真に道を体得した人は、「他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている」

古い話では横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「未だ木鶏たりえず」といったというエピソードがある。これを踏まえて横綱白鵬は、連勝が63でとまった時に支度部屋で「いまだ木鶏たりえず、だな」と語った、とある。

 

酒の席で楽しく話すのはいいが、他人の幸せ話や不幸話で盛上がるのはやめたい。

木鶏とまでは行かないが、動じない心は人生を2回りした大人の手本にすべきだと思う。

また酒の席で、将来の話が出る。将来というよりも老後の話しである。病気のこと、生活のこと、不安なことばかりなのだ。

未来のことを悩むのは愚かである。

荘子は「来世は待つべからず。往世は追うべからず」という。

未来をあてせず、過去の思い出にひたるなという事だ。

また「不測に立ちて無有に遊ぶ」とも言っている。

未来のことは考えたり計画したりせず、今起きていることに対して素直に従えば、生き生きとした人生を送ることができると。

将来の計画を考えるのはいい。

しかしその空想の未来の不幸に心を砕くのは、愚かしい。

荘子ではないが、列子(れっし)の「杞憂」の故事がある。

中国の古代、杞(き)という国に、天地が崩れ落ちて、身の置き場がなくなってしまうのではないかと不安にかられた男がいた。彼は心配のあまり、ろくろく眠れず、食事もとれなくなってしまう。

その相談に乗った列子がいう。

「崩れるかどうかなんて、人にわかりっこない。生きているうちは死のことはわからない。過去から未来もわからない。そんなことで心を悩まさないことだよ」

つまり「人間の小知恵では、そもそも何が安定し、不安定なのかなどわからない」といった。

 

 

未来に行なう事を儒教で「志」と呼び、現代人は「計画」「目標」などと言う。

しかし荘子は全く違う。

変化し続ける状況に完全に身を任せることこそ荘子にとっては目指すべき境地なのだ。

 

現在の最大の間違いが、シミュレーションと呼ばれる科学的な予測が可能だと思われていることだ。

所詮、予測である。科学の力で熊本地震をシュミレーションできただろうか。

「不測に立ちて無有に遊ぶ」は先の見えない老人予備軍こそ必要な心である。

 

最近、退職して暇なのかフェイスブックをはじめた奴がいる。

回りの反応に一喜一憂している。

友達の数を得意がって話す。

それはそれでいいと思う。個人の趣味なのだから。

しかし、一言伝えたい言葉がある。

「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴(甘酒)の如し」

私に友達申請はやめて欲しい。

私は、他人の食事やペット、旅行には興味ないのだから。

 

 

最後にうなった言葉がある。

荘子は「受け身こそ最強の主体性」と言ってのける。

「全てを受け容れたとき人は最も強くなれる」そうである。

たとえば熊本地震など、人知を超えた災害である。その被害は、受け入れるしかないのである。

受け入れて、主体性を持って対処するしかないのだ。

さらに「やむをえずしてやる」が、「荘子」では最高の行動原理とされている。

奥が深い。

「私がしたくてする」のではなく、求められて「せざるをえない状況なのでする」
それこそ余計なものが入る余地のない、最も欲望から遠い生き方とも考えられる。

これは、こざかしい人知によって下心のある仕事はよしとせず、真にやるべき仕事の事だと理解している。

消防士、警察、自衛隊の災害活動、坊主の葬式。これらはみなそうである。

消防士

消防士

必要だから行なう仕事だ。

これから来る老いや病、金欠など受け身にならざるを得ない。

当たり前だ。

荘子はそんな時、受け入れよと言っていると思う。

老人になるための知惠だと思う。

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