稲佐鯨洞

長崎市で対岸地区という言い方は今でもあるけど、昭和30年以降、長崎市の稲佐、旭町、飽の浦を指す言葉だった。

もちろん主となるのは、市役所や県庁がある地域だ。特別差別的要素を持っているとはいい難いが、対岸地区は明らかに町の色合いが違っていた。

昭和中期は長崎を支えた漁港が有り、あの三菱造船所がある街だった。戦前はロシヤ村ともいわれ、長崎市の裏方と言ってもいい地である。そんな稲佐の歴史を振り返りたい。

今ざっくりと稲佐と言っているが江戸時代は、浦上淵村稲佐郷、舟津郷、平戸小屋郷、水の浦郷と言っていた。 つまり渕村の一部だった。

『長崎地名考』には「むかし武人稲佐氏、山の麓に居れり」とあるが、確たる証拠もなく不明である。

稲佐郷が旭町と言う町名になったのは、海岸が埋め立てられた明治の後期1904年である。 その前は稲佐と言った。

稲佐鯨洞

1767年、稲佐鯨洞に鋳銭所が出来るとある。 稲佐鯨洞とはなんだろうか。

鯨洞(くじらどう)の南とは、稲佐崎の崖下で、後に、志賀の波止と呼ばれる場所である(現・旭町13番一帯・旭大橋の稲佐側カーブ下)。

稲佐崎

鯨洞(くじらどう)の名前に関して解説はないので、文字から推測する。

洞は、ほら、どう、うろ、ドン、うつろと読み、 洞窟や洞穴(どうけつ、ホラアナ)など。 今の稲佐からは想像できないが、昔は岩場に大きな洞があったと推測できる。 鯨洞(くじらどう)とは、どんな意味なのだろうか。

鯨のように大きな洞だったかもしれないし、

洞の何処かに穴が開いていて時々鯨のように潮が吹き上げたのかもしれない。   そういえば、鯨の古名は勇魚(いさな)という。 稲佐崎の「いなさ」と「いさな」。もしかして洒落で鯨洞(くじらどう)と呼んだのかもしれない。

鯨洞(くじらどう)?

鯨洞(くじらどう) 正面は旭大橋

現在もえぐれていたのがわかる。 この大きなのえぐれなら鯨洞(くじらどう)と呼ばれるのも納得できる。

また、大村湾にも鯨がいたということなので、外洋に面した長崎港でも鯨が捕れていたのかもしれない。  

六十余州名所図会 肥前長崎稲佐山という絵がある。

広重

正面右は淵神社、真ん中は鵬が崎(?)、そのひだりが稲佐崎だろうか。 いずれにしても、岬がたくさんある風景である。

この絵が正確かどうかはわからないが、風景としては一級品だったのは確かのようだ。    

鯨洞?

この広重の絵を拡大すると、大きな岩の塊のような物が見れる。 洞穴も有るようだし、鯨のように大きい。 これかもしれない。    

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