月の連休明け、友人と牧島にアジゴ釣りに出かけた。
 
弟のお嫁さんが牧島出身ということもあり、土地勘はある。友人も昔網場に住んでいて、牧島に行こうといい出し、旭町から気楽に出発をする。
 
牧島には曲崎積石塚古墳群があり、過去2回ほど見に行ったのだが、石ころが散らばっているようにしか見えなく、私にはその重要性がわからなかった。
 
山越えをして行き着いた港には、すでに何名かの人たちが防波堤で釣っている。海を見ると、これが長崎市内かと思うほど綺麗である。天気も良かったので青い空ときれいな海には感動する。
 

牧島

 

穴弁天

その港には「穴弁天」があった。真っ赤な鳥居が唐突にあり、洞穴に神仏が祀られている。
 

穴弁天

 
私達は穴の奥には進まなかったが、あとで調べてみると30メートル以上の通路があり、奥には子安明神が祀られてあるという。
 
弁天様は弁才天ともいい、日本では天女というイメージが有る。
 

弁才天坐像(妙音天) 岩手県盛岡市・松園寺

 
本来はヒンドゥー教の女神だが、仏教に取り込まれて守護神とされている。
 
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される事が多い。ウィキペディア
 
 
宗像三女神の市杵嶋姫命(いちきしまひめ)といわれれば、この場所に祠があるのも頷ける。
 
市杵嶋姫命はスサノウと誓約を交わした天照の子供である。市杵は「イチキ(斎き)」という、神霊を斎き祭るという意味がある。またこの姫は天孫降臨の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の養育係でもあり、子供の守護神として祀られる。「穴弁天」の奥に「子安明神」があるのもその理由だろう。別の解説には、洞穴は女性器を暗示し、生殖の祈りを捧げたともあり同意できる。
 

弁天

 
港に祀られる神様は、恵比寿様が一般的だ。恵比寿はイザナミ・イザナギの神様が最初に生んだ子だが、ヒルコ(不具の子、水子)なので海に流した。しかし、その子が神様となり再度日本の海岸に流れ着いたとする漂流神徒して復活している。
 
故に、港の神様として日本に広まっていった。長崎出身の漫画家、えびすさんの名字は「蛭子」と書く。本来はヒルコなのだが、上記の理由で「えびす」と読むのだ。
 
このあたり、日本の神様は様々な意味合いが後付されていき、どんどん進化していくのが特徴である。海外の一神教、例えばキリスト教や、イスラム教では考えられない変化だろう。純粋な仏教の世界でもここまで変化していない。
 
この牧島の「穴弁天」に祀られている「子安明神」や「弁才天」も神道と仏教が混在しているので、昔からの信仰の形を残していると言えるだろう。
 
そういえば、牧島の隣りにある戸石の港にも、牧島に面した海にむかっている大きな鳥居がある。
 
そう考えれば、曲崎積石塚古墳群もこの地域と違う様式を持つ古代の墓場とも言える。この古墳が作られた時代は、認定されていないが、日本の創生期に作られたと思われる。
 
私が考えた曲崎古墳群の一文がある。興味のある方はどうぞ。
 
百済人一族の墓 曲崎古墳群
 
 
やはり、牧島は聖地だったのだ。あの奇岩ともいえる海岸の様子や、橘湾の奥にあるという地域性から見て、かなり重要な場所だったと推測できる。
 

牧島の海岸

牧島の海岸から矢上方面を見る

 

震洋の特攻基地

長崎市東部・戸石の沖合100mの地に浮かぶ牧島。この島には、第二次世界大戦後期、川棚特攻隊・震洋の特攻基地が設置された。
もうひとつの夏~特攻基地・牧島~ 長崎 – 長崎市
 
 
これもまた、後で知ったのだが特攻基地があったという。
 

震洋

 
震洋とは特攻艇である。構造が簡単で、大量生産された船だ。搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を行うため、ベニヤの作りである。訓練は、主に長崎県大村湾の川棚水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2箇所で育成が行われ、牧島に配備された。
 
震洋のようなボート以外にも、人間魚雷「回天」、人間ロケット「桜花」、さらには特攻潜水服「伏竜」などもあり、敗戦の匂いがしてきた折に制作され一部戦闘に参加していたという。戦時中の事とはいえ、やはりこれは愚行だと言えるだろう。
 
しかし、こんな話も残っている。
 
終戦の玉音放送後に出撃命令が出されたが、これは司令部の少佐が配下の部隊に独断で命令したため。
 
第132震洋隊長渡邊國雄中尉は「それは少佐殿個人の考えですか。それとも司令の命令ですか。司令の命令ならともかく何の連絡も受けていませんので今日のところはお引き取り下さい」と言い出撃せず、隊員らにも「無駄死にするな。その力を新日本再建のために最大限努力するのが唯一の道ではないか」と諭した。
 
同様の事は第一三四震洋隊長半谷達哉中尉も行った。ウィキペディア
 
 
この話のように、理性ある軍人がいたのも確かなのだ。
 
現在「特攻」というと、日本の戦時下の愚挙としてのみ取り扱われることが多く、戦争批判の材料になってしまうが、こんな考えは当時の特攻隊として出撃した兵士の心を代弁したと言えるのだろうか。
 
あの時代のことを私も知らない。しかし、ヨーロッパやアメリカのアジア侵略の中で大東亜戦争を考えれば、日本が戦争を選択してきた事を頭から非難をすることが出来ないと思う。
 
特に相手国のアメリカは日本を踏み潰す気で戦っている。もし負けたら故郷や家族が悲惨な目に遭うと信じ込んでいた。だからこそ、自分を犠牲にして戦ってきたのである。やはりその気持を汲むべきだと、日本人なら思うべきである。
 
また、彼らの決死の戦いが敗戦後のアメリカの占領政策に大きく関わっていることを抜かしてはいけない。もし進駐軍が他のアジア地域の様に、敗戦国民を虐げるような政策を行えば、内戦が起き更にひどい結果になると進駐軍は考えた。だからこそ、比較的に緩やかな戦後になったのである。
 
アメリカ軍が紳士的だったのではなく、特攻隊の兵士たちの心の座り方に進駐軍が恐れを抱いたのが真実なのだ。だから、まずは牧島の英霊達に感謝すべきである。
 
だが今は戦後70年ほど経つ。とりあえず今、平和な日本に暮らしている。そして牧島のアジゴ釣りにきた私達も楽しい時間を過ごしている。
 

牧島の防波堤の友人

 
午後3時頃に納竿した。アジゴは小さいものばかりで釣果は小である。いまの平和に感謝しながら、この綺麗な海の場所を後にした。