何故「長崎」というのかという事に結論は出されていない。
 
この事に関して面白い話がある。
 
外山幹夫先生という方がいる。長崎大学、長崎県立女子短期大学教授、県立長崎シーボルト大学教授などをされていた方で、先生が出されいてる本の中に「中世長崎の基礎的研究出版社: 思文閣出版」がある。
 

中世長崎の基礎的研究 | 外山 幹夫

 
その中に、
 
長崎ではおなじみの越中哲也氏の「越中哲也の長崎ひとりあるき」という本の中で、「外山氏が永崎氏が住んでいたので「ながさき」という地名ができたのだろう(と言っていた)」という説を出したと書いてあるという。
 
外山氏はその事に関して、そのような事を言った事もないし書いたこともないと述べ、呆れて放置していたという。
 
しかし、その後も「長崎氏がいたから長崎となったと外山氏が言っている」という記述が出たので、越中氏と長崎市当局に抗議し、訂正を求めたとある。
 

越中哲也先生

 
私も
 
「長崎」という地名の由来を再び考える。逆ユダ「長崎氏」
 
 
のなかで地名が先だと書いている。
 
結局、長崎氏という名前と長崎という地名の由来は、比べればおのずからわかる。
 
 
長崎は開港するまでは寒村だったという説明がいつも付いているが、これは事実と反している。
 
埋め立てられる前の長崎の岬が寒村だったわけで、長崎には多くの人たちが暮らしていて、様々な文化もたくさん残っている。
 
範囲は広くなるが、縄文時代、古墳時代の遺跡や古墳もあることは強調したい。
 
その話は又書くとして、まずは地名である。
 
長崎は古代よりいろんな呼び名があった。
 
古くは「瓊杵田津(にぎたづ)」という呼び名があったがあだ名のようなニュアンスなので、歴史的事実とすれば深江浦だ。
 
記録では鎌倉時代に長崎浦とよんだ記録があるので、その時分から長崎浦に確定されたとわかる。
 
長崎氏だが、長崎小太郎(鎌倉末期)とか長崎四郎(南北朝初期)という人物がいたことは間違いない。
 
しかし、長崎氏の本家は丹治比(たじひ)氏の一族である。
 
この丹治比(たじひ)氏一族と戸町の一族で境界の争いが、鎌倉初期に起きている記録がある。
 
この時すでに長崎浦という名称が使われているのだ。
 
  • 鎌倉初期には長崎浦という地名が使われていた。
  • 長崎小太郎(鎌倉末期)や長崎四郎(南北朝初期)の名前はそのだいぶ後に登場する。
というのが事実である。
 
越中先生は人気者なので、先生が言った事はすぐ市やテレビ局は、疑いもなく使ってしまうのだろう。
 
こういう事もあったという事を言っておく。