じげもんと自称している長崎人でも、何代か前はいろんな地方で暮らしていたかもしれない。
 
長崎にどんな人達が流れ込んで住み着いたか、簡単にざっくり書いてみたい。
 

古代の話から始めよう

 
肥前風土記という、肥前国で書かれた記録文がある。
 
その中に、第12代景行天皇が、島原に住んでいるその地域の王である高来津座神の所へ部下を遣わしたという記述がある。
 
つまり、古代では島原に高来一族がいうことになる。
 
また、肥前には土蜘蛛がいたという事も書いている。
 

土蜘蛛

 
四世紀末、神功皇后が大村湾で水難にあわれ、土蜘蛛の欝比表麿(うつひおまろ)がお救い申上げ、皇后は「以後汝の里を救郷と称せよ」と仰せられた。それが訛って周賀郷(すがごう)となった。肥前風土記によれば郡の西方に周賀郷ありとする。
 
周賀郷とは時津だという説もある。  
 
まだある。
 
彼杵(そのき)郡の速来津姫(ハヤキツヒメ)
 
長崎県彼杵地域の浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)
 
これらの姫のことが書かれている。
 
つまり、2千年前の大村、長崎には、土蜘蛛と呼ばれた女性王国
 
島原には高来一族が居た。
 
みなさんが生粋の長崎人ならば、こんな人達の祖先だったのかもしれないですよ。
 
 

中世はどうだろうか

 
長崎市内の岩屋山には岩屋神社がある。
 
伝説では700年位の時代だ。
 
岩屋山のある滑石地区や稲佐山の麓に、岩屋神社の宿坊がたくさんあったという。
 
という事は、坊主か山伏たちがたくさん住んでいたはずである。

山伏

 
その後平安、鎌倉、室町時代は国内の内戦や、朝鮮半島からの襲撃、元寇の役など不穏なことも多く、東国の武士軍団が長崎にもやって来ている。
 
また、長崎氏の本家、多治比一族が長崎にやって来て住み着いている。

多治比猿掛城 http://rover.seesaa.net/article/450100465.html

 
多治比一族は宣化天皇の流れをくむ一族である。
 
もしかしたら、あなたは東国武士の子孫か皇族の末裔の末裔かもしれません。
 

昭和

 
近年で言えば、戦後、長崎の漁業は、徳島あたりの人が多くやって来て五島や長崎に住み着いている。
 
 
祖父祖母の出身が徳島という人も実際多いのである。
 
さて、あなたのルーツは何処だろうか。