謎の彼杵郡  長崎は彼方の火の国

肥前国風土記に古代の長崎県の事が載っている。

何度も書いているが、九州を天皇が巡回、土蜘蛛のいる長崎県を平定するといった内容の文である。

その中に出てくるのが「浮穴沫媛(うきあなの、あわひめ)という土蜘蛛の酋長である。

浮穴にすむ沫媛という意味である。

媛は姫で、姫とは、1.女性に対する美称。

2.身分の高い人の子で、未婚の女性の事をいう。

景行天皇は、土蜘蛛の浮穴沫媛を従わないので誅したと書いてある。

天皇(景行天皇)、宇佐の浜の行宮に在まして、神代直に詔りたまひしく、「朕、諸国を暦巡りて、既に平け治むるに至れり。未だ朕が治を被らざる異しき徒ありや」と。

神代直奏ししく「その烟の起てる村は、猶治を被らず」と。やがて、直に勅せて、この村に遣りたまふに、土蜘蛛あり、名を浮穴沫媛といふ。

皇命に捍ひて甚く礼なければ(甚だ無礼)、やがて誅ひき。よりて浮穴の郷といふ。

無茶な話である。

沫媛の顔を知らないけど、姫というからには若い女性?(老婆ではないと思う)だろう。

どうも、大和勢には言いなりにならない奴は女子でも殺しても平気だと思える。

英雄の大和尊でさえ熊襲には女子に化けてだまし討ちをするし、勝つためには手段を択ばない方針のようだ。

土ぐもの話はさておいて いまだに、この姫の住んでいた場所が不明なのだ。

『和名類聚抄』(930)の古代の地名を並べてみる。

肥前国彼杵郡内の郷名 彼杵郡という中に4つの郷がかかれている。

彼杵郷 於保無良=大村郷 浮穴郷 周賀郷

という4つの名前が載っている。

今の彼杵郡とは違い、かなりの広範囲だったといわれている。

彼杵郡

(ウキペディアの地図)

長崎市の大部分、佐世保市の一部、諫早市の一部(多良見町各町)、大村市・西海市・西彼杵郡・東彼杵郡の全域とある。

広く大村を含む彼杵郡については『肥前国風土記』に詳しい。

古代の彼杵郡は、現在の佐世保市一帯から大村湾を取り囲む地域、それに長崎半島に至る広い範囲であり、その中には四郷があった。

現在の地名と繋がらないのが浮穴郷と周賀郷である。

彼杵郷も確定できていない。

この件に関して、いろんな説が出ている。

しかし、いろんな説の説明が「現在の○町に比定する説が一般的である」と、載っているのが面白い。

えーっ! 誰が一般的と決めたの?。

郷と名づけるのにはというのは決まりがあり、当初は、五十戸をもって一郷としたが、後には数村をあわせたものを指したとある。

(郷の前は里といっていたという)「郷」は地域を指し、「村」は集落を指すともいう。

という事は「郷」の下には複数の「村」があるはずだ。

しかし、古書には「彼杵郡には大村、彼杵、浮穴、周賀の四郷あり、その中に七つの里あり・・」とある。

えーっ! 四郷なら、最低8つの里がなければならない。

何処かの郷は、1箇所で里でもあり郷でもあるという話しである。 この疑問に関して

「2009年7月 – 新報ながさき – Gooブログ」

「周賀郷、即、周賀里」とあり、周賀郷だけ例外とあった。

確かに例外かも知れないが、他に理由があるかも知れないと感じた。  

景行天皇の後の世代の神功皇后の話しの中に 『肥前国風土記』彼杵郡条 有土蜘蛛 石欝比袁麻呂 丞済其船 因名曰救郷 今謂周賀郷・・ 四世紀末、神功皇后が大村湾で水難にあわれ、土蜘蛛の欝比表麿(うつひおまろ)がお救い申上げ、皇后は「以後汝の里を救郷と称せよ」と仰せられた。

それが訛って周賀郷(すがごう)となった。肥前風土記によれば郡の西方に周賀郷ありとする。

郡の西方に周賀郷という事だ。

周賀郷とは時津だという説もある。  

ちょっと待てよ。

「郡」は701年大宝律令制以降の地方行政組織で42代文武天皇の時代である。

神功皇后が郡のことなんか言うわけないのである。  

「郡の北に浮穴郷」 北側だから七ツ釜鍾乳洞という説もある。

それらしい地名もないので、皆さん多彩な推理を展開している。  

ふと、肝心なことが抜けていることに気づいた。

彼杵郡はかなり広く設定されているが、その当時本当に彼杵郡の広さがわかっていたのだろうか。  

長崎県は土蜘蛛の国である。

平定したとあるが、まだまだ未開の地だったはずだ。

そのせいか彼杵の描写はどこか情報不足である。

だから、その当時の認識では彼杵郡とはかなり狭い地域のことしか書いていないのではないか。

土蜘蛛の彼杵郡 長崎半島も彼杵郡に入っているが、大和勢には詳しい情報は届いていなかったと思う。

なんとなくわかるが、「土蜘蛛の郷」のことはわかる範囲が少なかったのである。

だから、これほど広い地域なのに4つの郷と7つの里しかわからなかっただけなのだ。

長崎県-1

(筆者が思うその当時の彼杵郡。この程度しか把握してなかったんじゃないかな)  

景行天皇の息子のヤマトタケル、その息子の仲哀天皇と嫁の神功皇后。

景行天皇の孫(仲哀天皇、神功皇后)の時代になって、長崎半島は大和勢に懐柔されていった。

しかし、その時代でも土蜘蛛族は相変わらず存続していた。

それが欝比表麿の周賀郷(すがごう)の話しになった。

いつか土蜘蛛側の記録が出てくることを期待したい。

「杵」という字について

ここで彼杵郡の名前だが、名称に「杵」という文字が使われているものがある。

出雲大社は、昔は「杵築」大社とよばれていた。

大分県国東(くにさき)半島の宇佐神宮は、宇佐郡だが隣に杵築市がある。

佐賀県には杵島郡がある。

そして、長崎の彼杵だ。

天孫降臨の瓊瓊杵尊にも杵が使われることがおおい。

それ以外にもあるが、杵という文字の意味である、

餅つきが由来だと思われるものが、関東以降おおい。

「杵」地名 http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/57490189.html

結構ある。

宮崎の臼杵市だが、臼塚古墳の入口に立っている石甲(石で作られた武人の像)が、「臼(うす)」と「杵(きね)」の形に似ていると理由である。

しかし、写真で見る限り、そんなに似ているとは思えないが、まったく似ていないともいえない。 微妙だ。  

いろんな「杵」の地名だが、一番有名なのは「杵築大社」である。

出雲大社

(撮影 竹村倉二 フリーフォトより)

出雲大社と呼ばれたのは1871年(明治4年)である。

出雲大社は祭神が変ったことは有名である。

平安時代前期までの祭神は大国主大神。

中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊。

これは大人の理由からだ。

宗教はいつだって政治に利用されていくのだ。

歴史に精通している人なら、出雲と大和の関係はご存じと思う。

11月の神無月の話しは、出雲の影響力の大きさを今でも示している。

宇佐神宮は、日本書紀によるところの宗像三女神降臨の地である。

杵築という名前のいわれは、江戸時代に木付藩だったのが幕府の朱印状が誤って杵築と記されていたために杵築になったという。

本当にただの間違いなのか不明である。

幕府の朱印状が誤って杵築と書いたとしても、そのまま木付藩の侍達が納得したとは思えない。

杵築という名前に納得したというか、木付という名前のほうが当て字だったのかも知れない。

しかし中世以前からこの地が八坂郡木付荘といっていたという。

八坂といえば八坂神社、祭神はスサノウで有名である。

キヅキは杵築大社(出雲大社)。

ただの間違いとも思えない。  

出雲大社

出雲大社

大分県国東半島の宇佐神宮と出雲大社は、四拍手を打つ共通点がある。

また、第二祭神が、ともに比売大神である。

比売大神は特定の神ではなく、主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神のことをいう。

比売大神は卑弥呼のことだともいわれていて、祟りを封じ込める神社として有名である。

宇佐神社

宇佐神社

宇佐神宮に祭られている三女神は、天照とスサノウの誓(うけい)の結果から生まれたという。

田心(たごり)姫君、湍津(たぎつ)姫君、市杵島(いちきしま)姫君。

市杵島(いちきしま)姫の中に「杵」がある。

佐賀県の杵島郡だが、百済の王を奉祀する稲佐神社がある。

この神社は古く、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」とある。

長崎の彼杵郡の中に、同名の稲佐山がある。

長崎の稲佐山も、百済の聖明王を祭る神社があった。

これら杵の付く地名や神社に共通しているものがある。

それはスサノウである。

須佐之男

須佐之男

スサノウは様々な意味を持つとされる神様で、天照の弟となっているが、天孫族ではないとされている。

杵はキネである。

餅をつく時に使う、単なる長い棒である。

精米する時にも使う道具である。

杵築大社の名前の由来が、諸皇神達がこの大社(現出雲大社)をキヅき給うたので 「キヅキ」と称するようになったというが、 築くという文字になぜわざわざ「杵」という文字を入れたのかというのが問題である。

木造なのだから「木築」でも良いではないか。

事実、木築という名字も多い。

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「杵」という文字を入れた理由

出雲大社が作られた由来が、出雲族が大和と交渉して作らせてもらったという過程がある。

出雲族にも意地がある。

築いた神殿は、恐ろしく高い日本一の神殿だった。

そして、築くという文字の頭に杵をいれる。

杵には臼しかない。

臼は頑丈な石で出来ている。

その中に米を入れて杵でつく。

杵築大社は、大和を臼に見立てて、自らを杵とした。

そうである。

杵と対になっているのは臼しかないのだ。

杵 臼

杵 臼

また、臼(うす)と杵(きね)とは、男女が和合することのたとえでもある。

杵築大社は、自らを男として表現したのかも知れない。

杵にはそんな意味があるのだ。  

長崎の彼杵郡だが、天皇が言った「そない玉」という由来は唐突すぎる。

地名を天皇側からつけたという、上から目線のやり方だが、いかにも適当である。

彼杵の「彼」を「その」とは読まない。

漢字の成り立ちからいうと、波のように遠方に行った所を意味し、そこから「かなた」を意味 する「彼」という漢字が成り立ちました。

つまり、波のように遠方にある「杵」の国。

という事だ。

「杵」は音読みで「鬼」と通じるし「木」でもある。  

長崎は肥前という。本来は「火」の国である。

もしかしたら「火」の国の彼方にある「ソノヒ」だったかも知れない。  

長崎は「ソノキ」であり、島原は「タカキ」である。

長崎の金比羅山の古名は「ニギ」山といい、瓊杵(にぎ)という字を書く。  

ともあれ、長崎は大和からして見れば、彼方の国である事は間違いない。

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