なぜ五島と呼ばれたのか

五島地図

長崎県の五島列島の話。

5つの島だから五島というという解説が多く、私は単純な疑問を抱いていた。

「5つの島」の五島という点だ。

僕の父の故郷が五島の宇久という所で、中学生の頃夏休みに、佐世保から船に乗ってよく遊びに行っていた。

冷凍の鯨の赤身は美味しかった。

ゴミが浮いていない海は冷たくて心地よかった。

五島が好きだったのだ。  

 

5つの島だから五島というというのはウィキペディアに載っていた。

という事は、定説という事になる。

しかし、五島は五つの島じゃない事は地図を見ても明白だ。

説明を読むと、大小あわせて140の島があるとの事。

北東側から中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島と五つの島から出来ているので五島と呼んだそうだ。

しかしそうすれば、小値賀町(おぢかちょう)や宇久(うく)島は五島ではないらしい。

イザナギ、イザナミで有名な国産み神話に登場する知訶島(ちかのしま)といわれている小値賀(おぢか)。

邪那岐神と伊邪那美神

邪那岐神と伊邪那美神

宇久島は五島を統一した五島藩の始祖、都落ちの平家盛がいたところだ。

歴史的にも重要な、宇久島と小値賀島を仲間はずれにした「五島」という呼び名はおかしい。

 

いつから五島と呼ばれていたかはウィキには書いていない。

調べればわかる事だ。  

 

古代より五島列島は超有名だった。

五島の昔の呼び名は値嘉郷(ちかごう)とある。

平戸島は庇羅郷(ひらごう)だ。

この二つを合わせてて「値嘉島」という行政区画とし、島司が置かれた。

 

876年の事である。

なんだ。 昔は五島と呼んでなかったのだ。

やっぱり。

それじゃ、誰が五島と呼んだのか。

 

またもやウィキに記述がある。

この五峰とは五島の別称であると・・

 

五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。

 

いきなり核心に触れてきた。

中国人は「五峰」または「五島」と呼んでいた。

ヤマトは「ちかのしま」と呼んでいたとある。

五峰とは何だ?

これまた調べる。

五島は倭寇と呼ばれる日本の海賊たちの拠点だった。

その中で有名なのが「五峰王直」と呼ばれた人物らしい。

五島と倭寇の関係はうっすら知っていたが 「五峰王直」は知らなかった。

五峰王直

五峰王直

生年不詳。本名は「テイ[金呈]」といい、「五峰」とも号したと記録にある。

いわゆる謎の人物だが、「嘉靖の大倭寇(かせいのだいわこう)」史上最大の巨頭とも書かれていて当時は大人物だったようだ。

「嘉靖」とは、中国の歴代王朝の明の年号だ。 その時代の「倭寇」という事だ。

倭寇(わこう)とは海賊だ。 最初の頃の倭寇は日本人の海賊だったが、後半は中国人が多数だったという。

その倭寇の大親分が「王直」という人物だったらしい。

そして「五峰王直」の「五峰」は「日月五峰図」というということからきている。

日月五峰図

日月五峰図

「日月五峰図」は李氏朝鮮時代によく使われていた絵だ。

この絵は王の絶対的な権力の象徴している。

韓国の新しい1万ウォン札の絵に「日月五峰図、竜飛御天歌」 という図柄が描かれている。

後期倭寇の大親分である「王直」は、自分にその名を付け加えたのだ。

 

例えていえば「独眼龍 政宗」「甲斐の虎 武田信玄」 「清水の次郎長」みたいなもんだろう。

これが広まり定着したと思われる。

朝鮮人が呼んでいた「五峰」が「五島」になったのだ。

五島列島がいかに大陸と密着していた歴史を持っていたかという証拠みたいなものだ。

まったく地名というのは、いろんな歴史を持っているもんだ。

捜査終了 (2015.8.2 加筆)  

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