二つの九州

『まぼろしの邪馬台国 宮崎康平氏著』は、僕が古代史に興味を持つようになった本だ。

確か高校時代に図書館でみつけ、なんとなく読んだのだが、気がついていたらしっかりはまり込んでいた。

まだインターネットが世に登場していない時代である。本だけが情報源だったのだ。

それから様々な古代史の本にはまり、「逆説の日本史」井沢元彦著でピークに達した感がある。  

邪馬台国の場所

これは、解説が必要ないくらい、その場所の謎は日本中の話題だったと言っていいくらいだと思う。

現在、主な説とすれば、九州にあったのか、近畿にあったのかが、未だに議論の中心になっている。

そして「まぼろしの邪馬台国」の本では、九州の島原に存在していたと宮崎康平氏は主張している。

この説は昭和40年に「九州文学」に連載開始され、その後本になり、第一回吉川英治文化賞を受賞した経緯がある。

それまでは、一部の学者だけが論じていただけで、殆どが近畿説だった。

ところが、盲目の素人が、九州にあったという説を出し、その本が大ベストセラーになったのだから、すべての日本人が驚いたと言っていい。

これにより、日本に古代史ブームがやって来たのだ。

もし読んでいない人がいたら、多分図書館にあるはずなので、一読をおすすめする。(できれば、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」もお勧めする)

その『まぼろしの邪馬台国』の中に博多湾と有明海は運河で繋がっていたという記述に、私は衝撃を受けた。

今まで誰も考えなかったことである。

宮崎康平氏は盲人である。なので邪馬台国の道筋を考える時、妻が朗読する「魏志倭人伝」の邪馬台国が記載されている箇所を妻に朗読してもらいテープに保存し何度も聞いていた。更に自作した九州の立体地図を指でたどりながら、思索を続けていたという。

そんな宮崎氏の結論が、博多湾と有明海は運河で繋がっていたというものだ。

これが表題の「二つの九州」 の意味である。

縄文海進(じょうもんかいしん)

約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まる。1万2千年以前の海水面は現在より140mほど低かった。その後、海面は上昇していく。

約6,500年前-約6,000年前にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高く、気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1から2℃高かったといわれている。

約6000年前をピークとして現在の海面より約2~3メートル高くなっていた。

これは、貝塚のある場所が、本来海岸線にあるはずなのに、内陸よりで発見されている事が問題となり、検証の結果、世界の地形もその時期に上昇していることが確認され、事実であることが検証されている。

 

縄文時代は今より、海が多かったのだ。 邪馬台国の時代では、今の地形より海水面は40mほど高かったといわれている。

試しに、下記のソフトを使って30m上昇した画像をみてみると、確かに福岡と有明海は繋がっていた。

30m

更に現在、平野になっている部分は海になってい3。

 

(ソフト名称:SeaLevel3 海面上昇シミュレーター3 日本詳細版) SeaLevel3

 

試しに出雲大社のシュミレーションを作ってみると、島根半島は島になっていた。

出雲には「国引き神話」がある。

なぜ、国を引っ張るという表現を使ったのかなという疑問がこれで解けたのだ。

弥生海退(海岸線の後退)

縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、気候が寒冷化し、今度は逆に海岸線が後退していく。

すると今まで海岸だった土地が、平野へと変わっていく。

このおかげで、稲作文化がスタートする。

稲作は渡来人が持ち込んだと言われているが、肝心の田んぼに出来る平野がなければ始まらない。

日本の稲作文化は、弥生海退が起こり平野ができたから根付いたのだ。

 

地形と文化は密接につながっている。

昔栄えた国も海の底に沈んだ可能性もあると思う。

更に地震や津波があった。

九州には阿蘇山があり、島原には雲仙岳がある。

当然火山の大噴火もあっただろう。

縄文時代の地形が詳しくわかり、その時代の自然現象が解ると、もっと斬新な解釈ができると思う。

例えば、井沢元彦氏が書いていたように、「日食が起こったから卑弥呼は殺された」  などの新説が出たようにである。

つまり、自然を理解しないと、古代の歴史は解けないということだ。


邪馬台国の謎を追った自説がある。よろしかったらお読みください。

邪馬台国は島原半島北部に在り

これは、私の説ではなく宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」の結論である。 そして私も同感である。 長崎で古代史に興味を持ったのが、今から30余年ほど昔である。 その間…

コメントを残す