スイジ貝の紋章 弥生時代の縄文人

吉野ヶ里歴史公園の展示物を見ると巴形銅器(ともえがたどうき)が展示されている。

展示棚にはスイジ貝も展示されていて、巴形青銅器のモチーフとして考えられているというコメントが添えられていた。

吉野ヶ里展示 スイジガイ

吉野ヶ里展示 スイジガイ

フリー写真 吉野ヶ里 アートワークス

http://freephoto.artworks-inter.net/

スイジ貝は「水の字」に似ているからスイジ貝という。

確かに、よく似ている。

スイジガイ
殻が固くて丈夫なことから、装飾品や貝細工の材料として利用される他、食用にもなる。
沖縄諸島や先島諸島では、先史より装飾品として利用され、現在も土産物として販売されている。 また、火難除けや魔除けとして家の玄関や家畜小屋に吊す風習があり、民家の玄関に今も時折見られる。

スイジガイ

スイジガイ


巴形銅器 ともえがたどうき
弥生時代から古墳時代中期にかけて使用された青銅製の装飾金具の一種。中空の半球形をした体部の周囲に突出した4~9本の扁平な脚状装飾を有し,全体の形が巴の形に似るところから呼ばれる。弥生時代のものは,左曲りの6~9本の脚があり,古墳時代になると,普通右曲りの4脚となる。

巴形銅器

巴形銅器

食用でもあり装飾品にも使える有能な貝で、とげとげがあり魔除けに使ったらしい。

弥生時代は、今の歴史学者が言うには大陸から多くの人が日本に渡ってきた時代という。

それなら、中国や朝鮮半島にこの巴形銅器がたくさんあったかというと、そうではない。


古代史&フォーラム by tokyoblog
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/tag/%E5%B7%B4%E5%9E%8B%E9%8A%85%E5%99%A8/

日本列島で今までに出土した筒形銅器の数は71本で、朝鮮半島での出土例はかっては数個だった。

しかも、巴形銅器、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)、碧玉製石鏃(せきぞく)など日本の前期古墳の副葬品を特徴づけるものと一括して出土している。

したがって、何らかの目的で日本列島からもたらされたものが、半島で出土したとする説は 妥当?

s-asahi025

世界大百科事典 第2版の解説
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%B4%E5%BD%A2%E9%8A%85%E5%99%A8-105938

巴形銅器 

裏面に留棒を鋳出した円形の飾金具は中国北部の青銅器文化に多いが,巴形の脚をもつものは日本以外にはない。

巴形銅器は日本だけ


これは、どういうわけだろ。

縄文時代の狩猟採集民族の文化が、列島の気候の変化で稲作中心となる弥生時代に移る。

そして、この弥生時代、大陸から大量の渡来人がやってきて稲作を推進したと。

この説は、今の日本の定説になっている。

そして、稲作が浸透し蓄積された富は各地に集落を作った。

その集落から、スイジ貝をモチーフとした巴形銅器が発掘されている。

巴型銅器は九州から西国地方にかけて多く見られるが、宮平遺跡(茨城県)でも発掘された。

主な発掘場所 吉野ヶ里遺跡、香川県さぬき市森広遺跡、福岡県春日市九州筑紫地区遺跡群

その巴形銅器は木の盾に装着された形で出土しているので、その集落のマークにされていたと判断されている。

縄文人が弥生時代を作った

スイジガイは西太平洋とインド洋の熱帯域に広く分布する。日本では紀伊半島以南の沿岸域で見られる。

南方系の貝である。

という事は巴形銅器は南方系の部族のマークということである。

そして中国大陸や朝鮮半島の部族や集団とは関係ないという事になる


縄文時代、日本列島には南と北から人々が渡ってきた。

巴形銅器は南からやってきた縄文人たちの風習が弥生時代に盾のマークに使われた。

結論は、弥生時代は渡来人が作った時代ではなく、縄文人が弥生時代を作ったという事になる。


熊本、鹿児島に隼人と呼ばれる部族がいた。

現在、隼人舞と呼ばれる踊りが残っているが、その盾には渦巻きが二つくっついたマークを使っていた。

大住隼人舞 | 京田辺市観光協会 公式サイト

大住隼人舞 | 京田辺市観光協会 公式サイト

この模様は巴形銅器とは違うが、貝か渦巻きと思えるモチーフを使ったマークのように思える。

六脚輪状文 (ろっきゃくりんじょうもん)のようなマークもある。

六脚輪状文

六脚輪状文

勾玉はスイジ貝

勾玉の形状は巴形銅器が元になっているのは間違いない。

勾玉

勾玉

勾玉

日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる[3]。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。


スイジ貝がベースになった巴形銅器の文様は、おそらく南方系の大きな勢力だった。

稲作が始まり集落が出来、争いが始まる。

その時に部族の文様が使われたのは間違いない。

巴形銅器の文様は、様々な部族がつかい、変形していく。


弥生時代とは、大陸の知識や渡来人がやってきたことは間違いないと思えるが、弥生時代の主体は縄文人である事は間違いないだろう。

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コメント

  1. 通りすがり より:

    縄文時代、日本列島には南と北からも渡来人が渡ってきた。

    巴形銅器は南からやってきた渡来人たちの風習が弥生時代に盾のマークに使われた。

    結論、弥生時代は渡来人が作った時代。

    が正解ではないでしょうか?

  2. artworks より:

    コメント有難うございます。弥生人、渡来人というテーマはとても興味深いテーマだと思います。おっしゃる通り「弥生時代は渡来人が作った時代」がこれまでの定説です。しかしこれに疑問を唱える方も多く、現在多くの科学的証拠から、縄文、弥生という時代の再構築が行われていることも事実です。もしご興味があれば自説 
    弥生人説に疑問あり!
    http://artworks-inter.net/ebook/?p=2505 
    弥生人はいなかった-神と仏の共存
    http://artworks-inter.net/ebook/?p=252
    をお読み下さい。