飯盛八天狗の鳥居の謎。松浦水軍と猿田彦伝説のつながり

諌早と飯盛の間の土師野尾(はじのお)という場所付近に

大きな鳥居が突然現れる。

鳥居には「八天狗」と書かれている。

気になって鳥居をくぐり車で少し進むと、再度鳥居が左に現れここにも「八天狗」と書いてある。

八天狗の鳥居

八天狗の鳥居

鳥居の足下には「申・天狗と太蔵の里」の立て札あり。

立て札

立て札

その日は時間がなくその鳥居を見ただけで引き返した。

 

 

八天狗とは、数多く存在する天狗の中の八人の強力な神通力を持つとされる大天狗チームのことをいう。

愛宕山太郎坊(あたごさんたろうぼう)
鞍馬山僧正坊(くらまやまそうじょうぼう)
比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)
飯綱三郎(いづなさぶろう)
相模大山伯耆坊(さがみだいせんほうきぼう)
大峯前鬼坊(おおみねぜんきぼう)
白峰相模坊(しらみねさがみぼう)
彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)

これらが八天狗というらしい。

 

長崎県諫早市の町中に八天神社というのがある。

八天神社

八天神社

御館山稲荷神社 鎮座地:長崎県諫早市永昌町八天籠三九六
祭神:火産霊神  創建:文化三年寅十月(1806年)
由緒:八天狗信仰の流布は不明であるが、諫早領内には諸方に八天狗石碑の建立あり、これら修験者山伏によって火難消除の守り神として信仰を広めた。

この永昌の地は小倉を起点とする長崎街道、佐賀藩からの諫早浜街道、島原藩からの三街道の合流する処で、佐賀本藩の代官所もあり諫早の宿場であると共に諫早抑えの拠点としての重要の地であった。

土師野尾は現在静かな農村のようだが、過去人の往来が多数あったらしく、集落も多くあったと想像できる。

 

山岳信仰

長崎、諌早、島原には山岳信仰が古くから根付き、島原の温泉神社には温泉四面神があり、諌早の地名も雲仙岳にある温泉神社の分身末社として伊佐早神の名前がある。

温泉神社

温泉神社

それ以外にも千々石(ちぢわ)町の千千石神があり、橘湾沿いは雲仙山岳信仰の文化圏といえるだろう。

高尾山薬王院・天狗立像・剣を振り翳す天狗

高尾山薬王院・天狗立像・剣を振り翳す天狗

修験者

修験者

天狗とは古代から伝説の存在であり、山伏とつながりは深い。

興味深いのは、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られるケースも多い。

サルタヒコ

サルタヒコ

島原街道には「猿田彦大神」が道ばたにたくさん祭られており、飯盛の「八天狗」と関係がありそうである。

 

庚申信仰(こうしんしんこう)

「申・天狗と太蔵の里」の申は、十二支のさるであり、十二支公園は庚申信仰(こうしんしんこう)の「申」と、天狗といわれている「猿田彦」を関係づけたものと思われる。

庚申信仰

庚申信仰

 

民間の庚申信仰と猿田彦は関係ないのだが、庚申信仰では猿が庚申の使いとされ、青面金剛像や庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がよく作られていている。

 

さらに猿田彦が塞の神(疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐ神)とも同一視され、申=猿田彦=天狗 の図式が出来たのだろう。

 

 

土師野尾(はじのお)

それとは別に橘湾沿岸は古代より交通の要所であった。

八天狗の鳥居がある土師野尾(はじのお)という地名が鍵を握っていると思う。

土師とは、古代,埴輪(はにわ)の製作や陵墓の造営に従事した人のことをいう。

 

土師氏は「土師」を氏の名とする氏族で、天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。

 

野見宿禰

野見宿禰

古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。

土師氏にはいくつかの顔がある。

古墳造営や葬送儀礼に関わった一族という面と、素焼の土器の制作者集団という面である。

素焼の土器は土師器ともいう。

古式土師器

古式土師器

土師氏の名の由来である埴輪の製造だが、長崎では発掘されていない。

という事は、大和朝廷に絡んだ古墳造営や葬送儀礼ではない、「焼き物師集団」としての土師氏がこの地にいた一族だと思われる。

 

飯盛の土師野尾は古くは日用雑器を焼く窯があったという。

更に窯跡群もある。

土師野尾窯跡群

土師野尾窯跡群

土師野尾窯跡群は、八天岳(標高297m)から北東方へ延びる丘陵の裾部に立地する唐津系陶器を製作した窯跡で、ハラタラ古窯跡と中道古窯跡から成る。
窯の構造は、割竹型の階段式登窯であり、唐津系陶器の初期段階の形態をもつ。出土遺物は、壺・甕・皿・擂鉢などの雑陶類であり、一部天目形の器形の碗が出土している。皿・平鉢・擂鉢類には胎土目の痕跡を残しており、慶長の役(1597~1598)以降に開かれた窯でなく、岸嶽系古唐津とほぼ同時期に位置づけられる。

土師野尾という地名は「焼き物の土師器」からきたのが正解だと思われる。

また唐津系陶器の形態ということは、唐津とこの飯盛はつながっていたのだろう。

唐津焼

唐津焼

唐津焼の始源窯とされる岸岳八窯は岸岳の陶工は上松浦党首波多氏と深くかかわっていたと語られて来ています。さらに、その陶工は登り窯をはじめ製作方法、作行(さくゆき)や道具名から朝鮮陶工とされています。

飯盛の近くに「唐比」という地名がある。「唐津」と関わりのある証拠である。

 

また松浦党とは長崎の水軍であり、その党首波多氏は秦氏一族であり、肥後国天草郡波多郷などがあり、関係が深いことは間違いない。

松浦党

松浦党

古代の土師野尾窯の制作過程から朝鮮との関わりも考えられ、「唐津」と同様に「唐比」も大陸と絡んでいたのだろう。

 

この橘湾沿いには、飯盛鬼塚古墳、曲崎古墳群という遺跡がある。

曲崎古墳群
5世紀末から7世紀初めにかけて、つくられた古墳群で101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所が確認された。石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明した。

曲崎古墳群

曲崎古墳群

 

飯盛鬼塚古墳
この古墳は6世紀後半の築造された古墳時代の埋葬施設です。石室内からは直径3㎝程の金環(耳飾り)や須恵器が出土しました。

飯盛鬼塚古墳

飯盛鬼塚古墳

ともに墓地として発掘されたもので、北部九州の文化圏に属していたとなると、ほぼ決定といっていいだろう。

長崎の橘湾(千々石(ちぢわ)湾)は、古代より大陸系や唐津系、または有明海などと海上交通が盛んだった。

牧島の曲崎古墳群や飯盛鬼塚古墳が示すように、集落も多く海路、陸路とも重要な土地だった。

 

海路では、玄界灘の唐津から松浦水軍が長崎、島原、天草、有明海沿岸に訪れており、松浦水軍の波田氏の繋がりもあり、肥前肥後つまり火の国文明圏を築いたと思われる。

その港は「唐津」にあわせて「唐比」と呼ばれたのだろう。

「唐比」の「比」は火の国の「ひ」と推測される。

 

陸では、雲仙岳の山岳信仰により、山族の文化が飯盛、長崎まで伝わっており、その街道沿いには天孫降臨の際の道案内、猿田彦の像が多く建てられ、この猿田彦も天狗と混同されており、山岳文化は、広く分布されたと思われる。

 

まとめ

諌早と飯盛の間の土師野尾(はじのお)という場所は、古代栄えていた。

松浦水軍が橘湾にも大きく関係し、一つの文化圏が出来ていたと推測される。

飯盛付近は島原、長崎間をつなぐ大切な街道であり、水軍の寄港地でもあったはずである。

とくに土師野尾には、焼き物の土師器つくりが盛んで、唐津と深く関係があった。

人が集まる場所には、信仰も集まる。

島原、長崎の山岳信仰の天狗信仰、島原の猿田彦信仰と同一視された庚申信仰も飯盛に流れ込んできたのだ。

その結果、土師野尾には古代より天狗信仰が根付き、江戸時代には八天狗という鳥居が作られた。

 

現在の「申・天狗と太蔵の里」というなまえだが、十二支公園の申(さる)とは、庚申信仰からつけられたものであり、天狗と猿田彦、そして申(さる)が関係づけられた。

 

相撲取り「太蔵」は、その地の土師野尾という地名の元になった焼き物集団土師氏の始まりである野見宿禰は、当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚されたという伝説からきており、公園には土俵が作られている。

これが土師野尾に八天狗鳥居がある私の推理である。

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