滑石の謎 太神宮が存在していた理由

僕は住吉地区に住んでいる。

住吉とは長崎市の端っこで、市内を走る電車の終点、1つ前である。

住吉

住吉

長崎の電車はちんちん電車という愛称で市民から親しまれている。

ちんちん電車は長崎電気軌道という会社で運営され、何処まで乗っても、現在は120円である。

こちらの方の終点は赤迫というところだ。

もう少し延長する計画があったが、それから先は坂になっていて、電車が登り切れないという事で、終点は赤迫止まりという事だ。

赤迫の坂を上ると、滑石という地域になる。

なめしと読む。 地名の由来はわからない。

長崎 空撮 撮影アートワークス

長崎 空撮 撮影アートワークス

 

今回は滑石の謎の解明である。

滑石を「なめし」と呼ぶのは珍しい。

 

漢字が「滑石」の町 熊本県 玉名市 滑石 とある。

「なめいし」と呼ぶ。

とある。他にはなかった。

 

滑石は岩石の名称である。

ろう石の事だ。

 

滑石(かっせき)- Wikipedia

滑石(かっせき)は、珪酸塩鉱物の一種、あるいはこの鉱物を主成分とする岩石の名称。中略 色は一般に白でろうそくの蝋や真珠のような光沢を持っているために、これを主成分とする岩石(後述)はろう石と呼ばれることもある。

滑石

滑石

 

滑石「なめし」とは滑石(かっせき)の事はまず間違いない。

滑石は「なめらいし」とも言う。

「なめらいし」の「らい」が抜けて「なめし」 ここまでは、ネットサーフィンで比較的楽にたどり着けた。

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photo アトリエ隼 仕事日記

 

しかし、まだ疑問が残る。

滑石(なめし)地区には、滑石(かっせき)鉱石の発掘後がない。

 

長崎滑石郷土史誌(團龍美編 博文社印刷 昭和63年6月発行)には ①滑ら石(なめらいし)から、地名が生まれた。

滑石は、滑石川(浦上川上流)の河床に、なめらかな石があるために滑石の地名が生まれてきたものであると一般的に言われている。

②「なめし」は「なめす」の同義語であり、「滑川」「なめりがわ」と同じように「平らかな所」「平地」「平野」の意味です。 滑石は大部分は山野にかこまれ、わずかであるが盆地の中央部に肥沃な平地があったので「平たい所」の意味がうなずける。

僕が上記の説明を読んで、何となく腑に落ちないのは、

「滑石(なめし)地区の滑石川河床に、なめらかな石があるため」というのが腑に落ちないのだ。

滑石(なめし)地区は、確かに「大部分は山野にかこまれ、わずかであるが盆地の中央部に肥沃な平地」がある。

しかし、「なめし」は「なめす」の同義語であり、「滑川」「なめりがわ」と同じように「平らかな所」「平地」「平野」の意味です・・という説明には納得いかない。

 

あれくらいの平たい地域なら、浦上川近辺にはいくらでもある。

それより、「井手の堰(せき)の滑石」の説の方が納得できる。

 

井手とは田の用水として、水の流れをせき止めてためてある所で井堰(いせき)という。

長崎滑石郷土史誌より 農業において、中央部を流れる滑石川を利用しましたので、大村藩の「郷村記滑石村」には、「井手」が30ヶ所位が記述されています。

手」とは川をせき止めて、田に水を引く装置、しかけである。「井手」は取水口が最も大事で川をせき止める形式によって「滑石」「板堰」「芝堰」の三種類が主にあげられる。 滑石は一番大きな形式で水がたまれば、石の上を流れる様になっている。

 

大野城市役所http://www.city.onojo.fukuoka.jp/s077/030/010/070/130/2077.html

井堰

井堰

 

川のみでなく堤の場合も考えられる事だが、郷村記にはすべて芝堰とある。

 

堰き止めるために、「滑石」「板堰」「芝堰」があると書かれているという。

芝と板と石を使った三段階で、滑石郷は芝堰だったとある。

 

という事は、昔は滑石川は氾濫していなかったという事になる。

滑石郷は、昔は大村藩の管轄にあった。

大村藩は、現在の長崎の大半を管轄していた。

その管轄内に、大瀬戸町雪浦の滑石(かっせき)の鉱脈があったので、「井手」を作るやり方に滑石(かっせき)を使うと標されていたのだと推測できる。

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 古写真に残る石橋風景 (2)西浦上の「大井手橋」

(滑石川の写真がなかったので、地域の近い大井手の写真を掲載しました。大体こんな感じだと思います)  

ここまで来ると、滑石という地名と滑石(かっせき)が深い関係にある事がわかった。

 

しかし、滑石(かっせき)の鉱脈がないこの地区が、何故滑石(なめし)という名前になったのか。

もしかしたら、鉱脈は昔あったのかも知れないが、現在痕跡がないので、無い場合を想定する。 次の疑問はここだった。   滑

石太神宮という神社がある。

大神宮ではなくて太神宮と書く

大神宮と太神宮では何が違いますか? - Yahoo!知恵袋

今は大神宮ですが、明治以前は太神宮と書いた例があります。

また密教系神道などは今も太神宮を使ったりします。 ただ、和語の「おおかみのみや」を漢字で表すと「大神宮」となり、 これを音読みすれば“タイジングウ”この“タイジングウ(こうたいじんぐう)”を単純に音借表記すると「泰神宮」そして泰と太の関係から、本来の大神宮に近字の太神宮も大神宮として残った次第です。

という事みたいだ。

「密教系神道」というのが気になるが、置いといて、太神宮の名前が気になる。

神社じゃなくて太神宮という名前である。

 

大師・神宮・大社・神社等の違いを教えてください。 - Yahoo!知恵袋

「神宮」「神社」などの名称は、神社名に付される称号で社号と言います。

現在「神宮」と言えば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。

また、「神宮」の社号を付されている神社には、皇室の祖先をお祀りしている神社の事で霧島神宮や鹿児島神宮、また歴代天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。

「神社」は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられています。

 

 

滑石太神宮の説明

【祭神】天照大神 【創建】寛文元年(1661)と言われる。

明治2年9月10日に村社加列された。 鎮守の杜は長崎市指定天然記念物、「滑石大神宮社叢」と成っている。

隣の大園小学校にとっては、良い環境を提供しているようだ。拝殿前の一段低い境内には、天保10年に奉納された石灯籠もあり、その前のマキの大樹も素晴らしい。

長崎市と合併する前の西彼杵郡西浦上村の五村社の内の一柱。当時の滑石郷に祀られていた。

五村社 岩屋神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 滑石大神宮 旧西彼杵郡西浦上村村社 住吉神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 天満神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 鹿島神社 旧西彼杵郡西浦上村村社

 

もと大村藩滑石の氏神として創建されたもので由緒も深い。

滑石太神宮は1661年に創立されたという。

この時期の日本は鎖国体制完成している。

ご存じ長崎は、大村藩が主導権を握りキリスト教の布教に専念した場所である。

それが一転して、キリスト教を禁教とし信徒を迫害した。

そして仏教・神道を復活させるために、様々な神社やお寺を作ったのだ。

長崎の大きな神社や仏閣は、大体この時期に建立されている。

 

おくんちで有名な諏訪神社 長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社は、焼かれたり壊されて無くなっていたのを、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まり。

 

これにより、キリスト教を封じ込める政策を国がとったという事だ。 しかし、禁教は明治まで続いていた。

 

浦上四番崩れ - Wikipedia

「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。これより前にも「天草崩れ」「大村崩れ」など、江戸時代中期には各地でキリシタンが発見され、処刑される事件が起こっている。

 

滑石地区のある西浦上地区は、当然キリスト教信者潜伏警戒区域である。

西彼杵郡西浦上村の五村社は大昔からあったものではない。

http://www.fwd-net.com/jin4/dai.htm より抜粋

岩屋神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 【祭神】健速須佐之男命 【創建】和銅年間(708~)草創と言われる。弘治元年、失火により消失。小社を祀っていたが万治3年、大村藩主により再興。この時、真言宗神通寺、神仏混祭岩屋大権現と称した。明治元年、官命により寺号を廃し岩屋神社と改称。明治2年9月23日に村社加列された。

滑石大神宮 旧西彼杵郡西浦上村村社

【祭神】天照大神 【創建】寛文元年(1661)と言われる。明治2年9月10日に村社加列された。

住吉神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 【祭神】底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命 【創建】寛永2年(1625)修験所轄住吉大明神として創建し明治2年9月11日に村社加列され住吉神社となる。

天満神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 【祭神】菅原道真公 【創建】寛政3年(1791)2月と言われる。明治2年9月25日に村社加列された。

鹿島神社 旧西彼杵郡西浦上村村社 【祭神】健御雷之男命 【創建】安政2年(1855) 明治2年9月13日に村社加列される。 一番古い由緒が残っている岩屋神社は

http://www1.ocn.ne.jp/~zen/zinzya.html

1556年と1574年の二度にわたり、有馬氏とキリシタンのため焼き打ちされたが、1660年大村藩主・大村純長(すみなが)によって再興された。

という事は、当然西浦上地区の神社仏閣は、被害に遭っていると思って間違いない。

だから再建された時は、過去の由来に基づいて建てられたはずである。

それが滑石大神宮と推測される。

 

現在「神宮」と言えば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられている。

滑石大神宮も「神宮」である。祭神は天照大神とある。

「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や、由緒により古くから呼称として用いられている神社に使われる。

滑石大神宮

滑石大神宮

ソラへ  http://sora-information.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-831b.html

という事は、滑石大神宮も相当由緒があるに違いない。

再度、滑石大神宮について書かれた文を読み返した。

滑石がかっせきの事であるのは間違いない。

滑石(かっせき)は勾玉の材料でもある。

 

勾玉 - Wikipedia 

(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。 皇室に伝わる三種の神器の一つに、八尺瓊勾玉が数えられる。

勾玉は装飾品でもあり、祭祀用の道具である。

勾玉づくり 勾玉用石材 紅滑石

勾玉づくり 勾玉用石材 紅滑石

 

同じ長崎には大瀬戸町雪浦に滑石の鉱石が出る。

その雪の浦では滑石を使って、石鍋を製作していた跡がある(ホゲット)

滑石製石鍋

滑石製石鍋

 

 

その最大の製造地が西彼杵半島と長崎半島で、現在その工房跡は50箇所以上が確認されている。

ホゲット石鍋製作遺跡

ホゲット石鍋製作遺跡

雪浦川上流に位置し、東西約200メートル、南北約150メートルの範囲内に点在する大小11ケ所の石鍋製作跡から構成されています。

http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/443/

 

その内の大瀬戸町のポゲット石鍋制作遺跡は、国の史跡に指定されている。

この事により、なめしは滑石の加工所があったと推測される。

 

もう一つの可能性に、曽畑式土器(そばたしきどき)がある。

 

縄文時代の前期に朝鮮半島の櫛目(くしめ)の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り西北九州に上陸。

当時同地で使用されていた土器に影響を与え,その結果曽畑式土器が成立したとされています。

曽畑式土器

曽畑式土器

 

屋久島では、その曽畑式土器に滑石(かっせき)を混ぜて作られた搬入品が出土しているのだ。

曽畑式土器が発見された地域は、一つの文化圏を作っていたと言われている。

 

滑石地区が古代の文化圏の中の一つの拠点だったとは考えられないだろうか。

滑石に古代の遺跡が発見されたという事はない。

しかし、状況証拠はある。

近くにある岩屋神社は708年が草創といわれている。

岩屋神社  鬼の足跡

岩屋神社 鬼の足跡

もっと古いかも知れない。

その通りだとすると飛鳥時代である。

岩屋神社にはいろいろ遺跡が存在して、その存在は未調査だが、古代長崎にとって大きい存在である事は間違いではない。

 

滑石地区は神々が身につけていた勾玉を加工する地だった。

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滑石大神宮は、その名の通り古代長崎の「宮」であった。

古代の「神々の里」は、時代を経て大きく変っていった。

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その神々を祭ったのが、古代の神宮だった。

そして、ある時から「滑石大神宮」として人々の前に姿を現わした。

そして、その地区は「滑石」と呼ばれたのだ。

 

 

追伸

滑石大神宮の「なめら石(夫婦岩)が流れる時は、滑石村も流れる」とは、井手の堰(せき)の事をいったのだ。

川が増水し「芝堰」「板堰」が役に立たなくて、最後の「滑石」が崩れたら、洪水になるという事を書いている。

きっと大昔、大洪水があった事が言い伝えられたのに違いない。

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