精霊流し考 「歓喜して死を迎えよ」

長崎は特別区 墓で食事をする文化

今年もお盆がやってきた。

お盆は、一族が集まってくる。 子供時代のにぎやかなお盆が今でも忘れられない。

お盆の3日間、兄弟や従兄弟達と一緒に、お墓で花火三昧。

家に帰れば、お爺ちゃんから赤ちゃんまで一族がそろい大賑わい。

騒ぎ疲れた子供たちは一部屋に集められて就寝。

そこで、年長のお姉さんが話す怪談話。子供たちは寄り添い団子虫のようになって、いつの間にか眠ってしまう。

そして、とどめは8月15日の精霊流し。

浴衣を着せられ、父や母親から手を引かれて、駅前の通りまで精霊流し見物へ。 あまりにもすごい爆竹の音に、泣き叫ぶ子供たち。

早々に引き上げ、かき氷を食べて自宅に戻り、自宅の庭で花火大会。

思い出は宝物だ。

そんな僕や兄弟達が大きくなり、結婚して子供ができた。

その子供達を引き連れて、みんなお盆には実家に集まった。 賑やかさは、子供のころの倍になった。

そして子供達は大きくなって、兄弟達は年をとって行く。

寂しい時期とにぎやかな時期が、周期を持っている。 今私の実家は寂しい時期だ。その内私の子供達にも子供が出来る。

また何時か、賑やかなお盆がやって来るのだろう。

 

さて、長崎のお盆は特殊だ。

大阪からやって来た、大阪生まれの弟の子は、何から何まで不思議だといった。

私の家の墓は稲佐の国際墓地にある。 ここには、中国系の人やイギリス人やロシヤ人などの墓がある。 そして、僕達はこの場所を「あちゃばか」と呼んでいた。

「あちゃ」とは阿茶(あちゃ)さん(中国人の愛称))の事で、中国人の墓という意味だ。 阿茶(あちゃ)さんとは“あちらさん”から来ている言葉という説がある。

また長崎の古賀人形の阿茶さんは、唐人屋敷に閉篭っていた中国人の船頭さんが淋しさを紛らわすため飼っていたシャモを抱いた姿だという。

その「あちゃばか」でのお盆の墓参り。 お墓は4畳ほど、石で塀をめぐらしている。そして鉄製の門がある。

さらに、二人ほど座れるベンチがあり、草木を植える花壇があった。 同じ区画に中国の人の墓があるが、やはり同じである。

中国の人の墓は日本人の墓よりも、やや立派だ。

ここで花火をする。更に墓の前で飲み食いをするのだ。 私も小さな時に、お墓で重箱のご馳走を食べた記憶がおぼろげにある。

昔は、飲み物や食べ物も墓に持ち込んでいた。

中国人の春の行事に清明節というのがある。 清明(せいめい)は、二十四節気の第5。三月節(旧暦2月後半から3月前半)。 「長崎の稲佐にある国際墓地には長崎はもとより長崎から各地に散らばった華僑の墓所が数多くあります。 その日は朝早くから各地の華僑が各家々の墓所に集まり、掃き清め、家から持参したお供え物を墓前に上げます。無縁の菩提は悟真寺の住職と稲佐墓地管理委員会の理事により懇ろに供養されます。家長は他の墓所を余さず回り線香を上げます。その後は墓所で会食をします。 (抜粋)」 風俗文化編 長崎文献社

 

でんでらりゅうの謎!!(私の説) http://freephoto.artworks-inter.net/book/nonf/den/

日本の中で、墓で会食をするのは長崎だけだと思う。

昭和30年代迄の人は、墓で重箱を開きパーティみたいに飲み食いを経験した人は多い。

華僑の人の影響は、それほど大きかったのだ。

それは、華僑の人たちの経済力だったと思われる。

精霊流しは、そんな長崎を背景にして育っていった。 育つと書いたのは、精霊流しのような行事は日本中にある。

「送り火」もそうだ。お盆に帰ってきた死者の魂を現世からふたたびあの世へと送り出す行事である。

仏教が庶民の間に浸透した室町時代以後に発達したといわれている。

京都の大文字焼きが有名である。 仏教には盂蘭盆会(うらぼんえ)という行事がある。旧暦7月15日に行う。

長崎 崇福寺でも行われていて、私も撮影に行った。

盂蘭盆会が日本のお盆と違うのは、祖先の供養だけではなく餓鬼道に堕ちたもの達を救済するという部分だ。 餓鬼道は六道輪廻の世界の一つで、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。

ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。

かなり恐ろしい世界である。地獄という言葉も、インパクトが強い。 日本の精霊流しは、祖先の供養だけである。

仏教の行事がベースになったと思われるが、日本人の精神的フィルターを通され今の形になった。

長崎の精霊流しの帆には西方浄土と書く場合が多い。いわいる極楽である。 精霊船の行き先は極楽なのである。

祖先の霊を極楽行きの船に乗せるというのは、日本中ありそうな形である。

しかし、日本中には無い。長崎と佐賀、熊本の一部だけだ。 前述した送り火だが、川や海に灯篭を流す地域のほうが多い。灯篭流しはお盆の時期とは限らない事も多い。慰霊の行事として定着しているようだ。

なぜ長崎だけに、あの賑やかな精霊流しが定着したのだろうか。 日本人の祖先霊に対する思いは強い。 死者に対する慈しみは深い。

それは、仏教という宗教だけではない。 古来、日本人が日本に住み着いたときから、つまり仏教という宗教を知らなかったときから、自然と共存してきた想いの表れだ。 アニミズムという。生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方である。

日本人はアニミズムをベースにして、神道や仏教を取り入れてきた。 儒教、陰陽道、修験道なども入り混じっている。 韓国、中国も同じような風土だと思うが、日本は特にその傾向が強いようだ。

なぜだろうか。 縄文・弥生といわれている時代区分で、大陸から沢山の人間がやってきて日本人の元を形成したといわれているが、言葉は韓国語や中国とは違う。

朝鮮語同系説などがあるが、専門的に言えば似ている点はあるが言語比較の上で最も重要視される、基礎的な語彙や音韻体系において決定的に相違する。

どこの国の言葉とも似ていないとすれば、やはり混合言語であろう。 ウィキペディアによると、クレオール言語(クレオールげんご)とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供達の世代で母語として話されるようになった言語を指す。

公用語や共通語として使用されている地域・国もある。 そんな日本人の基礎的なことを思えば、日本人の祖先への思いや様式は、かなり独自のものになっていると思われる。

そんな日本人の感情の中で、長崎の精霊流しは、思いっきり中国かぶれである。

長崎の町は人口の町である。 ご存知の通り、外国との貿易のために作られた集合体であった。

鎖国時代には、日本国宣伝のために、おくんちという奉納祭りをやっている。 キリスト教対策というのもある。 これらの意図的に作られたイベント形の行事の流れを汲むのが、精霊流しであろう。

江戸時代の鎖国政策により、長崎には中国人住居地区である唐人屋敷が作られた。

彼達は少数派であるにもかかわらず、同族を助け、育て経済的にも政治的にも大きな影響力を持つようになる。

それゆえ、長崎人たちは、中国人の影響を大いに受けた。 ペーロンというボート競走があるが、これも又中国行事の影響である。 そ

して、あの爆竹だらけの祖先送りの精霊流しが定着したと思われる。

しかし、すべて長崎が開港してからの話である。 長崎港は、若い大村忠純が、周りの国の威圧に対して作った戦略的な町である。 キリスト教とそのつながりから生まれる貿易の利益を背景に、生き残りをかけて展開した。 何も無い岬を造成し、各国からの寄せ集めで作った町。それゆえ争いが絶えなかった。

日本人ばかりではない。オランダ人、イギリス人、中国人も混じっている。 そんな町に、キリスト教弾圧が押し寄せてくる。 殉教者は30万人とも50万人とも言われているが、根拠は無い。

しかも、ただ殺されるのではない。拷問されるのだ。 繁栄と死が雑多に共存していた町 そこから生まれた行事。それが精霊流しなのだ。

「ええじゃないか」という現象があった。1867年東海地方に起こり,近畿・四国・甲州・信州などの各地に波及した大衆乱舞。民衆の世直し要求の現れである。

精霊流しと「ええじゃないか」は違うが、そのエネルギーのベクトルは同じだと思う。

さらに、キリスト教徒の質素な葬儀に対するアピールもあったのだろう。 爆竹で邪気を払い、一族で身内の死者を弔う。

私は、ニューオーリンズのジャズ葬式が重なって見える。 「歓喜して死を迎えよ」という有名な写真集がある。

黒人の人たちの、悲しみの表現である。虐げられた人たちの唯一の抵抗だったかもしれない。

長崎人には、そんな苦しみや悲惨さは無い。 しかし、混沌の町の中で自発的に生まれてきたもの。

長崎流「精霊流し」 人は泣きながら生まれてくる。

それが、現世なのである。 生を終えた人たちが喜んでくれる事をしてあげよう。 この混沌の町で、生きていた証を知らしめたい。

オランダ人、中国人、イギリス人、ロシア人、韓国人 武士や商人、百姓、職人、キリスト教信者 ここに、一族の一人が生きていたよ 一生懸命に生きてきたんだよ

そして、西のほうにある極楽に行くんだ

みんなで、盛大に見送るから寂しくないよ

そして、極楽で私たちを待っていてください。

それが長崎人の思いなのである。

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