「長崎」という地名の由来を再び考える。逆ユダ「長崎氏」
私は長崎出身である。故に長崎の名前の起こりは興味深い。
長崎が長い岬だからというのがある。
もう一つは、鎌倉の武士が、長崎に住み着き領主になったという説もある。
ネットではどうかというと、ふたつの説がウィキペディアに掲載されている。
長崎氏は桓武平氏千葉流(九州千葉氏)の流れを汲む氏族であり、現在の長崎県庁舎付近の長い御崎に館を構え、長崎港界隈の深堀から時津までの広い範囲を領していた九州千葉氏の一族が九州長崎氏を名乗ったことを起源とする説
元弘3年(1333年)、北條氏が新田義貞の軍勢に鎌倉を襲われて滅ぶと、代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その地名を苗字として、鎌倉の執権である北條氏の執事を務めていたことのある長崎氏の一人が九州に流れ(九州長崎氏)、長崎湾の奥を領して地侍になったと長崎甚左衛門純景がその系図で主張している説。ウィキペディア
ウィキペディアによると、長崎氏の由来は、桓武平氏千葉流(九州千葉氏)と北條氏の執事の九州長崎氏のどちらかではないかと書かれている。
本当だろうか。
長崎という地名は日本中にある。
■ 長崎(ながさき): 山形県鶴岡市長崎。鎌倉幕府の執権の北条時宗の家臣の長崎為基の領地であったことに由来する。
■長崎(ながさき): 東京都豊島区長崎。鎌倉時代に執権北条氏の家臣長崎氏の領地であったことに由来する。
■ 長崎(ながさき): 静岡県静岡市清水区長崎 。当地が草薙川(長沢)の州崎であることに由来する。
■ 長崎(ながさき): 福岡県筑後市長崎。もと長い崎があったことによるとの説がある。
その他多数
それと「鎌倉幕府の執権の北条時宗の家臣の長崎為基」の由来が結構あるということだ。
下記のブログは東京の長崎村の話である。
東京長崎村物語 ( 武州豊島郡長崎村 )
『 長崎村の由来 』
長崎村の名は、鎌倉幕府末期にこの地域が、北条氏の被官「長崎氏」の一族の実質的支配領地の一つとなり、村に派遣された領主「長崎次郎高重」により、長崎一族の名を冠して「長崎村」と命名されたもの…と考えられます。
その為に「肥前長崎( 九州長崎 )」や「陸前長崎」など、日本中の色々な場所にこの「長崎」の地名が出現しており、苗字がこれ程簇出したのは、この時期をおいて他に無い…という苗字学者の指摘もあります。( * 静岡県 伊豆 韮山の北には、伊豆の国市「長崎」という地名が実際に今もあります )
つまり北条氏の被官「長崎氏」の一族が、武州豊島郡長崎村(関東)を治めたという事があり、その時期に、肥前長崎( 九州長崎 )」や「陸前長崎」など、日本中の色々な場所にこの「長崎」の地名が出てきたという事である。
この文を深読みすれば、長崎という地名は全国にあるが、由緒のある家柄の北条氏の被官「長崎氏」の話が世に出た時から、色んな所の長崎が、我らも由緒ある北条氏の被官「長崎氏」の流れをくむものだと言い出したかも知れないと言っているのだ。
人間は成功すると、自分の過去を整形したくなるらしい。
武士の時代なので殊更だったかも知れない。
豊臣秀吉は自分の出自をいろいろと脚色したことで有名である。最後には天皇家の血筋であると匂わせるような文章作成を部下に命じている。
現代でも、出身校を偽る人達も多い。
そう思えば、我が郷土の長崎氏も、同じ事したかも知れない知れないなと思った。
長崎小太郎
フルネームは長崎(永埼)小太郎重綱という。
長崎の歴史の中でよく出てくる人である。
「長崎拾芥(ながさきしゅうかい)」という本がある。
これによると、長崎小太郎は鎌倉初期に長崎に住み着いたとある。
さらに「長崎実記」「長崎略縁起評」「新選士系録」「崎陽略記」にも同じようなことが書かれている。
しかし、これらの書物に書かれている系譜や人物名が、バラバラなのである。
特に「新選士系録」では、長崎小太郎は桓武天皇の血筋であるという系譜まであるのだ。
これはおかしい。前記した豊臣秀吉と同じような展開である。
信用しないほうが良さそうである。
長崎小太郎は地元出身
平安時代末期の治承4(1180)年に平包守(たいらのかねもり)という人が長崎の福田に下向している。
鎌倉幕府ができると、その息子・包貞(かねさだ)が幕府から地頭に任命され、その後、弟の兼信(かねのぶ)が地頭となっている。この兼信が、この地を「福田」と改め、「福田平次」を名乗ったのが福田氏の始まりである。
この福田氏にまつわる記録が「福田文書」という。福田氏は幕府の役人なので正式な記録が残っている。
その中に、長崎小太郎の名前もあり、出身には肥前国御家人(長崎浦)と書かれている。
となれば、長崎小太郎は地元出身だったのだ。
長崎に住んでいた土着武士集団は、戸町氏、大浦氏、矢上氏、永埼(長崎)氏である。
かれらは丹治比一族一族の子孫である。
丹治比(たじひし)氏は、多治氏・丹治氏(たじし)丹籐次とも称し、河内国多比郡を根拠地とする一族だが、日本中に分散して繁栄していた。
そして九州長崎にも流れ着いたのだろう。
どういう由来で長崎に住み着いたか不明である。
平安時代の長崎は彼杵荘(そのきのしょう)だった。
その彼杵荘に丹治比(たじひし)氏は君臨し、その子孫は荒れ地を開墾し、地主領主として存在していた。
その後、鎌倉幕府より福田氏、深堀氏が長崎にやってきて、領地争いをやっている。
その福田氏、深堀氏は鎌倉幕府関係なのだ。
永埼(長崎)氏はその事を気にして、自分も元を正せば偉いんだぞって言っていたんだと思う。
永埼浦を治めていたので長崎氏になった
長崎に住んでいた土着武士集団は、戸町氏、大浦氏、矢上氏、永埼(長崎)氏だが、本家は丹治比(たじひし)氏である。
戸町氏は、戸八浦という浦がありそこを治めていた為である。(戸は長崎港の入り口という意味)
大浦氏は大浦地区、矢上は矢上地区を治めていた為で、長崎氏も戸町の近くにあった永埼浦を領地にしていたためだと推測される。
戸町氏と永埼氏はその境界でかなりもめていたと記録にある。
それらの事を考えれば、永埼浦から永埼氏と呼ばれていて、後年、それが長崎と言う地名になったと考えられる。
そして開港前は寒村だったという記述が、長崎の観光案内にも多く書かれているが、前述のとおり、結構な数の領主がいる。
長崎市内でも領地をめぐっての小競り合いもあり、現実は寒村というわけでもなかった。
戦国時代のキリシタン長崎氏
長崎氏の勢力は順当に成長し、戦国初期に高木郡の有馬家の三男が婿入している。
となれば、そこそこ力を持った城主だったと思われる。
有馬家からきた康純(やすずみ)の孫が、よく解説などで名前が出てくる長崎甚左衛門純景(すみかげ)である。
この時期長崎全体を支配していたのは、大村純忠で、長崎氏は純忠の娘を娶り、大村家の重臣となり長崎を統治している。
そして、長崎甚左衛門純景は横瀬浦(西彼杵郡西海町)で洗礼をうけ、熱心なキリシタンとなった。
それが長崎開港の理由である。
世間一般の長崎開港の話では大村純忠がいきなり、長崎浦を開港したなどと書かれているが、現実はちがう。
長崎を治めていた長崎甚左衛門純景(すみかげ)はキリシタンだったので、大村純忠のススメに乗り、長崎をイエズス会に寄進したのだ。
逆ユダ
ユダというのは、キリストを裏切った男である。
なので長崎甚左衛門純景(すみかげ)は、仏教、神道の地であった長崎をキリシタンに売り渡した裏切り者と言える。
つまり表題の逆ユダだったのである。
長崎甚左衛門は、イエズス会に長崎を渡したため、自分の所領のほとんどを失っている。
長崎郊外の所領も豊臣政権の九州征伐によって長崎の一部として接収され、さらに1605年には幕府の差配によって僅かに残った所領も大村氏に与えられた為、まったく所領を失い、大村氏から700石の代地を提示されるが、これを蹴って大村氏を去り、各地を流転後、柳河藩(福岡県柳川市)主の田中吉政に仕える。
田中家が断絶すると実弟の居る大村藩に戻り、100石で仕えている。元和7年(1622年)、時津にて没す。
長崎氏は悲しい末路となっている。
長崎にとって「長崎氏」の役割は何だったのだろうか。
もし「長崎氏」がいなかったら、長崎の地にはキリシタンは来なかっただろう。
そのお陰で、長崎の観光資源としてのキリシタンは、長崎の為になっていると言えるだろう。
しかし長崎を治めていた城主だったのである。その地をキリシタンに与えてしまい、所領をほとんどなくしてしまった「長崎氏」は、長崎にとってどうだったかという思いは残る。
純粋だった長崎甚左衛門純景(すみかげ)は、その事を悔いただろうか。
それだけを聞いてみたい気がする。
長崎に稀な運命を持ってきた「長崎氏」 は違った意味で、長崎の地名の由来と言ってもいいのかも知れない。
この文章は、わが町の歴史・長崎 著者加藤章, 外山幹夫 文一総合出版 から引用させていただきました。その他はウィキペディア