「縄文の女神」は子供をおんぶして完成する
縄文時代なのに、現代的なスタイリッシュさに驚く土偶である。
発掘されたのは、山形県最上郡である。
地図で見ればわかるが、海から離れた地域だが、その地を流れる小国川は現在も清流としてその名を知られ、すみやすい地域だったようだ。
その地にある河岸段丘から多くの遺跡が確認されており、西ノ前遺跡も小国川左岸標高72mの川岸段丘上に立地している。
縄文の女神は縄文時代中期に製作されたと見られる、国宝指定の土偶の通称である。
高さ45cm、淡い赤褐色をした土偶で、完全な土偶で出土されたのは非常に珍しい。
(完全といってもそのままそっくり出たわけではなく、首、足、胴体に割れていた)
出土したのはこの土偶だけではなく、30体ほどが周囲から見つかっている。
残欠資料は47点。
頭部から脚部までの大小さまざまな破片だ。
顔面表現のないものや逆三角形の輪郭に眼鼻口の表現のあるものまで様々。
この土偶に何の意味があるのか。
なぜ、こんなスタイルをしているのか謎だらけの土偶である。
この像を見ると、現代風のファッションモデルのように見える。
胸を張り、お尻を突き出した姿はこれまでの土偶にないものだ。
学者等の意見である。
当時山形県教育委員会文化課の職員として発掘調査を担当された佐々木洋治氏は「他の土偶が儀式が終わればすぐに壊されるのと違って、ある程度の期間、安置されるなど中心的な土偶であった可能性が高く、生命を産む女性をかたどり健康祈願やまじないなどに使ったのではないか」
なるほど。
私も女性だと思う。
それなら、なぜあんな姿勢をしているのだろうか。
過去、縄文の心-1,2 という文章を書いた。
http://artworks-inter.net/ebook/?p=1473&cpage=1#comment-3116その時遮光器土偶は蛙の精霊だと書いた。
今回も「縄文の女神」を検証したい。
カメラマンの見方
見れば見るほどスタイリュシュである。
言い換えればやせっぽちだ。
横から見ると平べったく、お尻の上の部分が平らになっている。
まるで、何かを乗せるために平らになっているようにも見える。
あれ
この横からのアングルは、どこかで見た事があった。
子供をおんぶして立っているお母さん土偶
そうだ。
お母さんの姿勢だ。
赤ちゃんをおんぶしたお母さんの立ち姿に間違いない。
赤ちゃんをおんぶする為にお尻を突き出す。
両足を踏ん張っているのは、バランスをとるためである。
肩が張っているのは、両手を後ろに回しているからである。
しかし、出土品には赤ちゃんの土偶らしいのはない。
となれば、子供が出来て生まれてくれる事を願っている土偶という解釈が成り立つ。
小さな赤ちゃんの土偶もあったに違いない。
お尻は平らでも斜めになっている。
たぶん頭につけているのは帽子かスカーフで、
その両脇についている穴(ピアスの穴と呼ばれている)に紐を通して、赤ちゃんを固定したに違いない。
両手がないのは、両手を後ろに回しているので
正面から見えないだけである。
縄文のファッション
私たちがよく見る縄文服は、白っぽい色の服である。
女の子の頭には赤い漆塗りの櫛、耳にはピアス、首にはペンダント、手首にはブレスレット、腰にはポシェットをぶら下げている。三内丸山遺跡(縄文時代)-復元衣服
そんなおしゃれな縄文人なら、もっとカラフルな色をたくさん使っているはずである。
「縄文の女神」もおしゃれである。
この雰囲気なら、カラフルな色が似合いそうである。
ネットで探すと、服の雰囲気が似ている人たちがいた。
ミャオ族の衣装である。
ミャオ族
ミャオ族は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。
ミャオ族は日本人と文化のつながりのある民族である。
もち米で餠を作る習慣や豆類も重要な食品で、納豆も食べる。
日本のなれずしに似た発酵した鮨を食べ、祖先祭祀には必ず備える。
蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。
ミャオ族の祖先が日本の弥生時代を始めた!
http://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12056488900.html
彼女たちの民族衣装の雰囲気を「縄文の女神」たちはもっていたんではないだろうか。
パンタロン風のズボンの模様や、腹の部分のもよう
頭に巻いたスカーフなどがよく似ていると思う。
縄文の血を濃くもっている、沖縄やアイヌの人たちの民族衣装もそれなりに色や文様を使い綺麗である。
文化の熟成している縄文時代中期の人たちである。
ミャオ族のようなファッションだったと考えてもおかしくはない。
縄文人の色彩とファッション感覚
チベット、中国南部、ベトナムの人たちと、日本人がいろんな意味で親戚筋にあたる事は、学説でも言われている事である。
縄文時代というのが、単一民族でない事は周知の事で、北、東、南から渡ってきた人たちの複合体である。
同じ色のセンス、ファッションなど類似性が出てきて当然だ。
縄文、弥生を復元する時、その衣装の色は地味で単色になっている場合が多い。
特に日本は、四季があり、色彩の多い国だ。
そんな日本に住む縄文の人たちは、もっと色彩に敏感だったのではないか。
上の写真は、現代の衣装であり、様々な文化を経てきての作品たちである。
縄文がこうだったとは、当然いえない。
しかし、縄文の土偶を見れば、洗練された美意識を強く感じる。
こんな意識を持った人たちが、生成りの色だけを使っていたとは到底考えられない。
もちろん作業する時は、皆似たり寄ったりだが、祭りや特別の時は着飾る風習があったと思う。
縄文の女神は、その晴れの日の衣装を身に着けている姿だと思う。
話は変わるが、最近のティラノサウルスには、毛が生えていてカラフルになっている。
遺跡や土偶に色が残っていないので、しょうがないと思うが、
1万年以上も続いた縄文時代である。
もっと熟成したカラフルな文化があったはずだ。
石の建造物や国家などの組織を作っていなかったらしいというだけで、
文化の程度を低く見るのは間違っている。
文明を拒否し、文化の熟成に方向性を見出していた時代が縄文だと感じる。
「縄文の女神」も、作られた時はカラフルで、素敵な民族衣装をまとったものだったと推測する。
出産祈願
「縄文の女神」は妊娠した女性の祈りを見守る土偶だったに違いない。
無事、出産が出来ると、達磨に目を入れるのと同じ気持ちで
小さな赤ちゃん土偶をセットにして、子供の誕生と成長を祝うのである。
「縄文の女神」は、家族の願いをこめた
この世で一番尊い、母親になるための像だったと確信する。
おじゃまします。
宮崎県延岡市の巣ノ津屋洞窟遺跡、岐阜県下呂市の岩屋岩蔭遺跡はご存知ですか?この遺跡での天文観測が本当であれば、縄文人の知識レベルは非常に高かったと思われます。日本で発見されている縄文のビーナス類は今から約4000年から5000年前といわれる縄文時代中期の物だそうですね。エジプトでは、「紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。」シュメールでは、「ウバイド期に続く次の時期をウルク期(紀元前3500年-紀元前3100年)と呼び、この時期は都市文明の開始期である。」で、ほぼ同じ時期です。
十二支で、最初は子(ね)年ですね。子が「ね」である訳を考えまと、「ね」=音(おと)とします。ゴルゴ松本さんの言霊教育で、「命」とは、「人の一叩き」だと言ってますね。人を子に替えて母親の妊娠を考えると、妊娠したと知るのはあかちゃんの心音ですね。縄文のビーナスは、その後の歴史で観音菩薩に変わったと思われます。「神生(かんのう)」と地名が茨城県つくばみらい市と千葉県香取市神生にあります。観音菩薩とは、神の子の菩薩で、現人神を生む母としてると考えています。そして、「観(かん)」と石には霊が宿る(=岩座)から「寒水石」で、この石は茨城県常陸太田市真弓町の真弓山・真弓神社が産地です。国会議事堂の中央玄関から天皇の御休所への階段に寒水石が使われています。翡翠と氷川神社、寒水石と寒川神社(さむかわじんじゃ)で歴史にリンクするのだと思います。縄文の女神を書いたWebに、「そのほとんどは、故意に壊された状態で発見され、完全な形の土偶は極めてめずらしく、しかも後に、復元されたものも決して多くはありません。」とあります。縄文文化は破壊されたのでしょう。でも、言霊である程度は縄文文化に繋げることは可能です。太陽観測で「アナレンマ」現象があります。(毎日同じ時刻に太陽の位置を記録したとすると、記録された太陽の位置は大きな「8の字」を描きます。)観音菩薩は、「ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連が指摘されている。」とウィキペディアにあります。アナレンマ、縄文の女神、アナーヒターと観音菩薩は、「8の字」で生と死の循環の意味では?と考えています。
おんぶ説、面白い!背中の空間の意味、納得します。
私は最初この像を見た時から、頭部上面に目の間隔と同じ穴が2つ開いてるので、仮面をつけて45度上を向いて、背筋を綺麗に遠くを見つめている風に見えます。
腕がないのもそうですが、デフォルメの美しさなので、顎が省略されて、目線が強調されているのではないかとも思えます。
山形県立博物館の学芸員の方に正面を見ていると説明を受けましたが、正面を見ているのであれば、何故省略されたかがわかりません。目線の省略は不可思議と思います。
ご意見を伺いたく、ご教示下さい
コメントありがとうございます。なぜ腕がないのか、何故顔がないのかを考えてみた時、やはり人形の制作物というより、オブジェのような装飾性が全面に出た土偶だという気がします。
もしかしたら赤ちゃんをおんぶしてたというより、腰の上に編みかごのようなものを載せ、スカーフについている穴に紐を通して、編みかごをぶら下げていたのではないかと思いました。そうすると、編みかごには赤ちゃんの人形でも良いですが、花束なりを差し込んで部屋に飾ったという可能性も出てきます。となれば、今まで正面と思っていたのは裏面で、花束なりを差し込んだ編みかごが正面になるのです。
これなら顔が作られていないのも、手がないのも理解できます。また足がパンタロン風に広がっているのも、安定感があり、現代の花瓶のようにも思えます。
いかがでしょうか。これもあると思います。