九州倭人王朝と秦王国

この話は、とても重要だと思うのだが、学会ではただの余田話で片付けられている。

古田武彦という方がいる。邪馬臺国に興味のある人なら誰でも知っていると思う。

「邪馬臺国」はなかった、失われた九州王朝、盗まれた神話などが代表作である。

古田武彦

とても人気のある方で私もよく読んでいる。(2015年89歳でお亡くなりになりました)

古田武彦氏は「多元的古代」という事を主張している。

古代、複数の王国が日本列島にあったという、私達にしてみればごく当たり前の話である。

ただ、九州王朝説は古田武彦氏が初めてではなくて、江戸時代後期の国学者 鶴峯 戊申(つるみね しげのぶ)、明治の学者 長沼 賢海(ながぬま けんかい)が説を出している。

しかし、この説は井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されている。ウィキペディア

ただ、どんなに素晴らしい経歴の人たちが、いろんな説を述べても、重要な遺跡が出れば、180度ひっくり返る世界である。

真実を追究するのに学歴は関係ない。

現在賛否入り乱れて本が出版されているので、いろいろ読んでみてほしい。

私は九州王朝の存在は信じている。

近畿のヤマトと違う王国が九州にあったと考えたほうが理屈に通る事柄が沢山あるからだ。

ただ、九州王国というと九州全体となるので、私は倭国王朝という言葉を使いたい。


多利思比孤

西暦600年、倭国は隋(ずい)に使者を出している。

隋にしてみれば、初めての未知の訪問者である。

しかし国書も持たずやってきた倭国の使者に、いろいろ聞いてそのまま倭国へ帰している。

その時の隋王朝の記録には、その時倭国の使者に聞いた内容が記録されている。

倭国の王、姓は阿毎(アメあるいはアマ)、字は多利思比孤(タリシヒコ)、阿輩キ弥(オオキミ)と号す。使を遣わして闕に詣る。

とある。

これは隋の国の歴史書にあるだけで、600年の隋への訪問は日本書紀には記載されていない。

まずこれが不思議なのだ。

日本書紀の記録は第2回目の607年(推古15年)に小野妹子が大唐国(日本書紀には隋ではなく終始唐と書いている)に国書を持っていったという記述からである。

有名な「日出ずる処天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」という国書である。

そして日出ずる処天子・・の文章を書いたのが聖徳太子とされている。

しかし、隋の記録には小野妹子という名前も聖徳太子らしき人物の記述はない。

その訪問の後に、隋は無礼な「日出ずる処天子・・」の張本人に会いに、小野妹子と共に、煬帝の家臣である裴世清(はい せいせい)は日本にやってきている。

なぜ、何の面識もない倭国にわざわざやってきたのかも、さらに不思議である。


隋の記録

隋の隋書「東夷傳倭國傳」記録には、裴世清が日本で見聞きした事が載っている。

倭国の王は、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩キ彌という。

王の妻子について

妻はキ彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利(リカミタフリ)という。

近畿のヤマト王国ではこの期間、推古天皇(女性)である。しかも多利思北孤という名前でもない。

この部分は多くの歴史研究者が指摘している部分だ。

領地について
里数を知らず日で距離を測る。国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であるとする。

ここでヤマタイ国の話が出てくる。

過去は邪馬臺ではなく邪馬臺国だった。国を省略したのかもしれないが、他の地域には竹斯國など国が付いている。

となれば、すでに邪馬臺は国ではなくなり、どこかの国の都「邪靡堆」に政権が移っていると考えられる。


それ以外に「阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する」とある。

阿蘇山

これは、九州の阿蘇山の事である。

もうこれだけで、近畿のヤマト王国の事ではないとわかる。


どう考えても、西暦600年に隋にやってきたのは、元「邪馬臺」の多利思北孤の国の使者であり、場所は九州だ。

大和朝廷はすでに近畿にあり、この時代存続しているのは間違いない。

つまり、九州と近畿に二つの王権があったという事の証明である。

しかし、日本書紀には2回目の隋との会合の記述が記載されている。

そして、隋の記録と違う事柄が載っている。

隋の記録と日本書紀の記録のどちらが正しいのかという議論になる。

隋が嘘を書く理由はないし、思い違い、書き間違いがないとはいえないが程度問題である。

この議論は、根掘り葉掘り様々な人たちが議論しているのでここでは詳細を省く。


秦王國

隋の記録にある、九州の記述にある国が問題である。

大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべて倭であるという。

都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)は九州の地名と一致するのだが、秦王國だけ不明である。

秦王國とはどの国のことなのだろうか。


隋書には

又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷洲 疑不能明也

また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。


隋書記述の位置関係や阿蘇山の出現から、秦王国を豊前・豊後に比定する関裕二、大和岩雄などの研究者がいる。

たしかに秦王国が秦氏の国である可能性はある。

ただ倭人九州王朝は邪馬臺国の流れを汲む王朝である。秦氏が畿内のヤマト王朝と深く結びついているのは、歴史上の事実である。

そして、今回の話にかかわってくる、ヤマト側の日本書紀には聖徳太子の名前が出てきる。

この時代、聖徳太子と秦氏の秦河勝はすでに結びついている。

畿内邪馬台国説の人なら、邪馬台国と大和朝廷が連続する証拠として、喜んで取り上げる内容でもある。

しかし、倭人九州王朝説から考えれば、この時代にはすでに秦氏は畿内ヤマト側に組み込まれている。

なので邪馬台国の位置関係から見ても、秦氏の王国が九州内にあったとは考えられないのだ。

秦氏の王国以外に、秦王国の可能性はあるのだ。


秦王国の場所と重要性

ここで魏志倭人伝の邪馬臺国の位置の記述では、南という方位が多かった。

しかし隋書では東である。

まあ倭人伝から隋書までは300年の時間が経過しているので、九州内の勢力図が大きく変わったとしても不思議ではない。

日本でも、遷都として都は何度も移動している。

かなりの勢力図の変更があったのだろう。


また、隋書には「魏志所謂邪馬臺者也」という文があり、魏志倭人伝で書かれた邪馬臺の事は承知している。

わかった上で隋書に倭国の内容を書いている事を留意したい。


隋書に書かれている竹斯國は筑紫地区と解されているが、「ちくし」と「つくし」では読みが違う。

別の国の可能性もある。


隋書に記載されている位置を再確認してみる。

対馬から壱岐は、真東ではない。南もしくは東南である。

魏志倭人伝では「南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国」と書いてある。

その事を考えれば、どういう意図で壱岐を東と書いたかが不明であるが、文章の方角の書き方をなぞり、方角とおりに行けば、竹斯國は唐津の可能性も出てくる。

そして隋書では「又至秦王國」と書いている。

また東である。

秦王国

となれば壱岐、対馬、竹斯國(唐津)の延長線上に秦王國はある事になる。

行き着く先は佐賀県の平野部分である。

文に従えば、佐賀平野に秦王國が存在した事になる。


秦の王国なのか、秦王の国なのか判断に迷うが、これまで倭国の国に「王国」という表記をしたものがない。

なので、秦王の国ととったほうが正しいと思われる。

徐福伝説

佐賀平野に秦王国があれば、ピンと来るものがある。

それは、中国の秦の始皇帝からやってきた徐福伝説である。

徐福(右端)

徐福伝説は日本の各地にあるが、佐賀県佐賀市にもある。

佐賀県の徐福伝説
佐賀県には金立山,浮盃,竜王崎など徐福に関係のある伝承地が数多くあります。また,吉野ヶ里遺跡からは当時の中国の人たちの特徴を示す人骨が発見されているとのことです。これらから,徐福は伝説上の人物ではなく,九州佐賀県に確かに足跡を残した実在の人物と言えるのではないでしょうか。
http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/saga.html

吉野ヶ里という古代の遺跡も存在し、徐福の子孫達の国が出来上がっていたとも考えられる。

徐福は秦の国の人間である。

「その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり」

との文にしっかり呼応する。

遣隋使


多利思北孤はどこにいる

もう一度隋書に書かれている全文を見直してみる。

「經都斯麻國迥在大海中
又東至一支國
又至竹斯國
又東至秦王國
其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於倭」

これだけである。

ここのどれかに都の名前が「邪靡堆」という「多利思北孤」の国がある。

どこだろうか。

上文を読めば不思議な事がわかる。

其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 である。

この一文だけ、秦王國の感想だ。

ただ珍しいというだけで、短い文章の中で倭国の一国の感想を一文使って書くだろうか。

これは魏志の時代、邪馬壹国と呼ばれていた王国の後継国だからこそ、一文の説明が入っているのだ。

これこそ多利思北孤の王国なのである。

さらに、秦王国は文の最後にある。

つまり目的地なのだ。


日出處天子

多利思北孤は、自分の事を日出處天子と書いている。

中国の慣例では「天子」というのは唯一の存在である。

なぜ「日出處天子」と書いたのか。

それは、自分の国が秦の始皇帝の土地の子孫(徐福は皇族ではないが)である「秦王国」の国主だからである。

「王妻號キ彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」

そして、妻と子以外に後宮に600-700人の女がいるという。

まるで中国である。

ここもまた、「秦王国」が多利思北孤の居場所であった事を物語る。


渡来人系の秦一族が「秦王国」の住人だとすれば、この「日出處天子」は絶対書かないだろう。

渡来系だから、「天子」の言葉の意味をよく知っているからだ。更に秦一族は隋に国交を求める理由もない。

古代九州倭国が統一される以前に、九州にやってきた徐福の子孫だからこそ、「日出處天子」としゃあしゃあと書けるのだ。

もう一つ不思議な文がある。

「使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

天を兄とし、日を弟とした。天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。隋の高祖は義理がないとしてこれを改めさせたという。

朝日が出る前に政務をし、日が出ると政務をやめる。

弟にゆだねたという意味は、日を弟としている事から、日が出たら、政務はお日様に任せる。つまり何もしないという事になる。

この意味とはなんだろうか。

多利思北孤と卑弥呼

多利思北孤の国は、邪馬臺国の流れを汲む国である。

邪馬臺国はどうなったのか。

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 ?葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定

卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、?葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。その後また卑彌呼の宗女の壹與という13才の者が王になり、國中がついに定まった。

卑弥呼は、お日様の象徴である。宗女の壹與もおなじだ。

男王が立つが國中が従わずとあり、国を平和に治めるためには女性が必要だったのである。

倭国には「男の王が立てば国は乱れるというタブーが存在」していたのである。

なので国王は朝日が出る前に政務をして、日が出ればやめるというのは、卑弥呼(お日様)に政治を任せたという事になるのでタブーに触れないという意味だと推測される。

不思議だと思うが、倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務

を説明できる説はこれしかない。

更に言えば、邪馬臺国は卑弥呼の鬼道でもっていた。

鬼道は道教の流れを汲むもので、徐福は道教の不老不死を求めて日本へ旅立った人物である。

大きなつながりがあるのは間違いない。

九州倭人王朝のスタートは邪馬臺国の卑弥呼である。

しかし、歴史書にあるような怪しげなただのシャーマンではない。

卑弥呼は、大陸とのつながりを特に気にしていた女王である。

帯方郡を通じた邪馬臺国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、臺与の使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。ウィキペディア


頻繁に中国大陸の覇者と連絡を取り、倭国を安定させていた外交の達人である。

この政治手法は倭国に引き継がれていったのだ。

隋の時代になり、倭国は再び中国を訪ねる。

なぜだろうか。


新羅、ヤマトの台頭

九州倭人王朝は朝鮮半島に進出し、勢力を拡大していったのだが、この時期、近畿のヤマト王国が台頭し始める。

更に朝鮮半島に新羅という国が出来る。

その為に、倭国王朝の方針は大陸との国交を求め、新羅、大和に対抗しようとしたしたのではないだろうか。


隋は朝鮮半島にいる高句麗に手を焼いていた。598年から遠征し、計3回攻めているが、成功していない。

やっと有利な条件で和議を迎えたが、高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行しなかった。激怒した隋の煬帝は遠征を試みたが国内の反乱のため実現できなかった。


そんな折、倭国の多利思北孤から無礼な訪問があった。

本来なら相手にしないはずだが、高句麗の件がある。

なんとか倭国を利用して、高句麗への挟み撃ちの計を狙ったと思える。


隋との交流は結局実を結ばなかった。

倭国王朝は白村江の戦いで新羅と唐の軍隊に大敗し、急速にしぼんでいってしまったのだ。

九州倭人王朝の滅亡は、大陸との戦争に負けたのが原因だったのだ。


現在、古田武彦氏の九州王朝説は、様々の人たちの説にまぎれてかすんでしまったような気がする。

しかし、その功績は大きい。

私の尊敬する宮崎康平氏と共に、古代史の新しい扉をこじ開けた先駆者である。

私は宮崎康平氏の島原ヤマタイ国説を信じているが、古田武彦氏の考え方も十分共感できる。


二人とも歴史学の素人というだけで、日の目を見ていないが、本を読めば必ず感化を受ける。

それだけ、力のこもった思いが詰まっているのだ。

いつか九州倭人王国の証が発掘される。

これは間違いない。


参考文献
鬼の王権・聖徳太子の謎 関 裕二 著
九州王朝の歴史学 古田武彦
古代は輝いていたIII 古田武彦
よみがえる九州王朝 古田武彦
虚妄(まぼろし)の九州王国 安本美典
ウィキペディア

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コメント

  1. 掛布 広行 より:

    たまたま目に留まり意見を申し上げさせていただきます。この筆者は現在の学会とどのように違うのか理解できません。学会をを否定することは新しい考えを構築するためには必要なのですが、後の論調は現在の学会の域を出たとは思えません。畿内説を否定しながら畿内説を九州王朝説に写しただけの論理である。九州が日本の支配者ならどうして東に王がいるのか。もし、ほかにも王がいるのならどうして記述しないのか。畿内はどのようだったのかを説明すべきであるのに説明がありません。畿内と九州の文化の違いも検証すべきです。高々、邪馬台国が九州に有っただけ、しかも、『日本書紀』も九州に有ったとしているのに、大騒ぎしているのが異様なだけで、考古学的に見れば畿内は弥生初期から文化の中心です。九州王朝説を唱えるのも結構ですが、ジャーナリズムの一員のようでいらっしゃるこのページが論説されるのなら、畿内説、九州王朝説どちらにも偏らない真実を追求すべきなのではないのでしょうか。勿論、メディアが学会に異を唱えることは非常にむつかしい事でしょうが、その勇気が高々九州王朝説のよいしょ記事では空しくて仕方がありません。所詮、どの説も何の根拠もないところから始めた論争で、そのような論争になぜメディアも加担するのか不思議でなりません。学会に異を唱えるなら、もっと、しっかり調査して学会も異を唱えられない論拠をもって示すべきで、『隋書』を自分の説に合うように書いてもいないことを書き綴っても証拠にもなりませんので、学会が本気になればおそらく負けると思いますよ。いかがでしょうか?