長崎事件を知っていますか

長崎で暮らしていて、長崎の歴史はある程度知っていたつもりだったのだが、この長崎事件は知らなかった。

先生も教えてくれなかったし、テレビでもやった事はないと思う。

知らなかった事がとてもショックである。

現実に起こった事件なのに、この年まで知らなかったのが悔しく思うので、資料を基に書いていきたいと思う。

1867年に大政奉還がおこり、日本は明治となった。

その少し前の幕末では、長崎にも大きな歴史的波が押し寄せている。

それまでは長崎は天領として幕府直轄の地であったので、長崎奉行所が置かれていたのだが、その後、長崎の重要性を考え「九州鎮撫総督」をおく事にしてた。

この政庁は当初長崎裁判所と呼ばれていたが、その後長崎府となる。

この時代活躍を始めていたのが、龍馬伝でおなじみの三菱の基礎を築いた創業者岩崎彌太郎(いわさきやたろう)である。

岩崎弥太郎

岩崎彌太郎と長崎の関係は、土佐藩の役人として長崎に赴任して、樟脳や鰹節など土佐の特産品を売り、軍艦や武器を購入していたのがきっかけである。

その後三菱は、国策と結びつき強引な手法で事業を展開し、造船業では1884年(明治17年)に、長崎製鐵所が三菱の経営となり長崎造船所と改名している。

これが長崎と三菱の関係の結実となる。

さて、長崎事件はこんな時期に起こっている。

以降はウィキペディアに掲載されている記事を元に書き進める。

長崎事件とは、1886年(明治19年)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件。長崎清国水兵事件とも呼ぶ。

北洋艦隊(ほくようかんたい)は、1888年に編成された中国清朝の艦隊である。

1874年、日本軍の台湾出兵に衝撃を受け、琉球帰属問題に直面した清朝政府は近代的な海軍の創設に乗り出した。

そして出来たのが北洋艦隊である。

台湾出兵

台湾出兵

台湾出兵とは1874年、日本の明治政府が琉球漁民の殺害に対する報復の為に台湾に出兵した日本最初の海外派兵の事である。

事件の内容は、当時の琉球王国に属する宮古島の貢納船が台湾に漂着し、54名が台湾人の牡丹社という「生蕃(現地民族)」に殺害されるという事件が起こった。

その当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国とされ、日本と清国でその帰属に関して対立が生じていた時期である。

この事件で清国に打診すると、台湾の生蕃については清朝の「化外の民」だから関係ないと答えている。

 そこで明治政府は、琉球人は日本国民であり、生蕃にたいして、自ら討伐するとして、西郷従道(さいごうつぐみち)という西郷隆盛の弟を指揮官として1874年5月3600名の台湾遠征軍を派遣した。

 

結局、同年10月、北京駐在のイギリス公使ウェードの仲介によって妥協を成立させた。

その時清国は日本の出兵を「義挙」と認め、賞金を50万両支払うという内容であった。

「義挙」とは、正義のために事を起こすことである。

さらに和解文には「台湾の生蕃が日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という一文があったので、明治政府は清朝が琉球を日本の一部であると認めた、と解釈し、琉球併合を推し進めることとなる。

世界史の窓より一部抜粋
http://www.y-history.net/appendix/wh1303-115.html

これにより、琉球は後に沖縄となり、日本国となったという事である。

 

話は少し戻るが、1871年、日本と清の間で締結された、国交を樹立する対等な条約を結んでいる。

これは、清国と日本は長崎貿易でのつながりはあったが、別に朝貢関係もなかった。

そんな日本が清国と平等条約を結んだかというと、まず朝鮮は清国の子分であり、琉球は薩摩藩の支配下にあったが、清国に貢物をしているといった状態にあった。

日本が清国と平等条約を結んだという事は、朝鮮に対して日本の立ち位置を示し、琉球に対しても日本の国土であるので、余計な手出しはするなという意思表明だったからだ。

そして、江戸時代末期に結んだ、欧米に対しての不平等条約の解消を目指す、第1段階であったと推測できる。

一般的な解釈では、日清修好条規を交わしたにもかかわらず、台湾出兵をしたことに対して、日本人の国土拡張計画での暴挙であるとの意見が主流である。

たしかに、明治政府は欧米に対しての不平等条約の解消を急いでいた。

早く国を富ませ、欧米の強力な軍隊と競り合うだけの国力を持ちたかったのだ。

結局、今清国と日本が戦争をして、アジアが不穏になる事を嫌ったイギリスが中に入る事にした。

この時から、日本と清国は戦争体制に入ったと思われる。

日清修好条規を一方的に破った日本に対しての恨みと、琉球を取られた恨みが、はっきりとした反日の空気を作った。

結局この恨みが、現在の尖閣諸島の領海侵犯を頻繁にやり、さらに沖縄の独立などを画策する事になったと思われる。

イギリスが取り持った和解だが、清国は、近代装備の海軍をもっていなかったので、日本との戦争を回避しただけだった。

その後、清国は軍艦を持つ事になった。

しかし、自国では作る技術がなく、イギリスのアームストロング社に巡洋艦二隻、ドイツのフルカン社に戦艦二隻を発注した。

まあ、北洋艦隊というが、買ってきた船に、訓練していない海軍が乗り込んだ軍艦である。

強いわけがない。

それなのに、乗り込んだ船員たちは異常に興奮していたと思われる。

こんな状況が、長崎事件を引き起こしたのだ。

定遠

三菱財閥の誕生のきっかけ

もう一つ大事な事がある。

明治政府が台湾出兵の際、兵員輸送に英米の船会社を予定していたのだが、拒まれてしまう。

当たり前である。

英米は日本と清国の衝突に加担はしたくなかったからである。

そこで、民間の船を使う事になった。

しかし国内で台湾出兵には賛否両論があり、国有会社の日本国郵便蒸汽船会社に運航を打診したが、これも拒否されている。

そこで、新興の民間会社の船を使う事になる。

それが三菱なのである。

この時から、三菱は政権と結びつき、財閥への道をたどる事になった。

長崎事件

ここからは記録の写しである。

1886年(明治19年)8月1日、清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然長崎に入港した。

長崎港

これは、北洋艦隊を持った清国が威嚇の為にやってきたと思われる。

その船の名前は、全て「遠」の字が使われている。

「遠」とは外国の意味があり、北洋艦隊を作ったのは、日本を侵略するためである。

また、「定遠」「鎮遠」はドイツが作ったその当時世界第一の排水量7,400tの戦艦だった。

日本には、まだそのクラスの軍艦はなく、持っている軍艦はイギリスが作った3000tクラスの「浪速」と「高千穂」だけだった。

明らかに、日本に喧嘩を吹っかけるためにやってきたのだ。

長崎事件

8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。

遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊したり暴行を働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。

泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。

長崎県警察部の警察官が鎮圧に向かった。

警察官と清国水兵が双方抜刀して市街戦に発展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、水兵は逮捕された。

長崎事件

8月14日、長崎県知事・日下義雄と、清国領事館・蔡軒の会談で、清国側は集団での水兵の上陸を禁止し、又上陸を許すときは監督士官を付き添わすことを協定した。

8月15日、前日の協定に反し、午後1時頃より300名の水兵が上陸。

清国水兵数人が交番の前でわざと放尿し交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにした。

300人の清国兵が3人の巡査によってたかって暴行し、1人が死亡した。

これを見ていた人力車車夫が激昂し、清国水兵に殴りかかった。

すると、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。そして、止めに入った警察官と清国水兵がまたも斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す

清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。

日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本人住民も十数名が負傷という大事件となった。

事件後、日清両国は長崎においては英仏人弁護士の加わった会弁委員会で、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ、最終的には英独などの斡旋を経て妥結した。

その内容は事件の当事者については所属国の法律により処分、また撫恤料として日本からは52,500円、清国から15,500円を支出するというものであった。
*撫恤(ぶじゅつ)とは、あわれみいつくしむこと。

事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出た。

この事件は1884年(明治17年)の甲申政変と併せて日本国内の反清感情を大いに刺激し、後の日清戦争を引き起こす遠因の一つとなった。

*甲申政変
1884年12月朝鮮で日本と協力して近代化を図ろうとした金玉均が起こしたクーデター。清国軍の介入によって3日で失敗した。

この清国のやり方は、世界からも見ても度を過ぎている。

日本人が激怒するのも無理はない。

しかし、台湾出兵から全てが起こったといえば、そのとおりだが、その台湾出兵も宮古島の貢納船が台湾に漂着し、54名が台湾人の牡丹社という「生蕃(現地民族)」に殺害されるという事件からである。

日本のやり方が全て正しいとはいえないが、法にのっとった行動である事は間違いない。

しかし、清国は法など完全に無視した行動をとる。

長崎の港にいきなり巨大軍艦を乗りつけ、500名が上陸して、長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。

300人の清国兵が上陸し、その中の清国水兵数人が交番の前でわざと放尿し交番の3人の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにして、1人を殺害する。

これが、伝統的な中国のやり方なのだ。

正々堂々と戦う気など、毛ほどもない。

300人で3人を襲うなど、日本ではまったく考えられない。

しかし、日本人が清国の国民性を心に刻んだ事件である事は間違いない。

長崎には、外人墓地があり、さまざまな国の人たちが眠っている。

そして、さまざまな外国との歴史がある。

さらにそれは観光資源になって長崎の産業の柱でもある。

だから、外国との過去の紛争などは、くさいものには蓋的な姿勢である。

しかし、長崎人はちゃんと知らなければならない事である。

戦後の日本

敗戦直後に起きた昭和21年の長崎警察署襲撃事件。

長崎市西浜町の長崎自由市場では、物価統制令違反のヤミ物資が公然と販売され、それに並行して暴力行為も頻発していた。長崎県警察部では、これら不法事案の断固取締を決断し、検挙の準備を進めていた。

280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。

その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。

これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている。

これなどは、明治の長崎事件と同じ展開である。

現在の長崎市民は、過去の歴史など教えてもらえないので、中国人や朝鮮人に対して、特別な感情は希薄だが、私の祖祖母などは、朝鮮人は怖いとか、中国人は怖いなどと時々話していた。

現在、世界遺産である軍艦島が、韓国により地獄島とされている映画を製作した。

韓国は従軍慰安婦の次は、軍艦島の強制徴用を標的にした、反日プロタガンバを展開している。

「軍艦島は地獄島」韓国映画

また、対馬の韓国人問題もあり、長崎県の態度が問われている局面である。

日本の領土竹島に不法上陸して気勢を上げる韓国人たち  韓国人、対馬を韓国に返還しろと要求 http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/7417a5c7bfdae145885a7582878d8ff3

殊更外国に媚びへつらうような長崎であって欲しくない。

毅然とした、県政や市政を望みたい。

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コメント

  1. とある日本人 より:

    >私の祖祖母などは、朝鮮人は怖いとか、中国人は怖いなどと時々話していた。
    それこそ戦前日本人がアジアの人々を見下していた証拠に他ならないですねとしか。

    人間はよく知らない未知のものに恐れをなす生き物ですが、
    昨今のネットで暴れている輩の一部外国人に対する排他的な発言は、無知、
    もしくは偏った知識(ネガティブな内容が多数)しか持っていない故に
    発せられていると思います。
    その点は、彼らが憎んでいる「一部外国人」の「反日」的な人々と根は同じで、
    国籍や人種が違っても愚かな人間はどこにでもいるのだなぁ、と感じるのです。

    いつの世も社会の平穏を乱すのは対立や誇りを煽る輩なのだから。