古代長崎の中心 野母崎の観音寺
野母崎の観音寺は和銅3年(709)、「行基七観音」の内の一つ、千手観音を安置したことにはじまるとされる。
観音寺 撮影ARTWORKS
この寺が本当に709年に作られたとすると、古代長崎の要の地と言っても問題はないだろう。
この時代の天皇は女帝元明天皇である。
和銅3年3月には藤原京から平城京に遷都した。
古事記が完成したのが和銅5年1月(太安万侶により古事記完成)とあるので、この年代の古さがわかる。
同じ行基が開山したとされる岩屋山には岩屋神社がある。
同じ時期に栄えたのであろう。
野母崎の観音寺は立派なお寺である。
今の長崎人は、野母崎は長崎の端っこで、脇岬海水浴場だけしか知らないという人も多いだろう。
しかし、長崎開港は1600年くらいの話しで、それより1000年近く前に、長崎には大きな文化が存在していた事の、確固たる証である。
野母崎の語源が 自説
「長崎の原風景(4) 航海・漁業の守護神「娘媽(ノーマ)」が野母崎の語源」 http://artworks-inter.net/ebook/?p=271
でも書いたように、
大陸から日本に入ってくる船の重要な拠点だったのだ。
野母崎は当初から肥(火、日)の御崎と呼ばれていた。
長崎の十人町を起点に野母崎の脇岬にある観音禅寺へと続く“御崎道(みさきみち)”が通っていたことは史実である。
当時は、長崎の商人や遊女など、多くの人々が“みさきの観音様”を信仰していたためである。
過去の野母崎の観音寺は現在の地より、1キロほど北にあったとされている。
脇岬の砂浜のあるところである。
脇岬の砂浜は綺麗な砂浜である。 脇岬海水浴場をみて気づいた事がある。
それは、出雲の稲佐の浜である。
よく似ているのだ。
出雲には先日行ったばかりで、よく覚えている。
島根・稲佐の浜 撮影ARTWORKS
砂浜と古代の神社仏閣は、シンクロしている。
神々は海からやってきたのである。 これは間違いない。
観音寺は作られてからかなりの時代、長崎の大きな信仰の場所であったので、その間、由緒あるものも多い。
郷土史の資料としては一級品だ。
だが僕は古代史が好きなのだ。
江戸時代の文化財はあんまり興味ない。
そんな僕が、興味があったのは門の脇の石積みである。
ぶろぐ最近登った山 (岩屋山インカの石積へから写真を参照させていただきました) http://yamanosoyo.exblog.jp/17141495/
観音寺門の石積み 撮影ARTWORKS
この石積みと野母崎の観音寺の門の脇の石積みがそっくりだった事だ。
僕は石積みの専門家ではないので、間違いかも知れないがそう思う。
観音寺を作った人たちは、岩屋山にも住んでいたかも知れない。
日本がかたまりかけていた時代 長崎には、一つの文化があった。
観音寺はその貴重な証拠なのである。