金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(4)
現場100回。刑事ドラマのようだが、現場に行く事は大切だと思う。
そして前回見逃していたものを見つけた。
環境庁の立て札である。ネットにも載っていなかったデータが、現場にははっきり大きくあったのだ。
その立て札にはこう書いてあった。
当社の起源は、昔百済の琳聖太子が山上に香をたいて北辰を祀った故事に由来するといわれています。
その後、嵯峨天皇の弘仁年間(820)に神宮寺が建立され、宝永2年金比羅大権現勧請(かんじょう)となり、無凡山神宮寺と呼ばれてきましたが、明治維新となって金比羅神社と改称されたものです。
やっと解決の糸口が見えてきたようだ。
琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。
朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされる。
北辰は北極星の事である。 さあ、ここで百済が出てきた。
金比羅神社は、昔は無凡山(むぼんざん)神宮寺と呼ばれたとある。
無凡山という名前も珍しい。崇嶽とも呼ばれていた。
呼び名はどちらがその当時一般的だったのだろうか。
現在の金比羅神社は明治に建てられている。
この神社から先に行くと、道があり頂上には祠があった。ここが無凡山神宮寺の本尊であったと思われる。
環境庁の立て看板には、この祠は1705年に祥院長慶といわれる修験者が岩を削り祠を建てたとある。
ここの解説では祥院長慶とあり、「吉」の文字が無い。
単なる間違いだと思う。
「当社の起源は、昔百済の琳聖太子が山上に香をたいて北辰を祀った故事」を調べる。
琳聖太子(りんしょうたいし)は、大内氏の祖とされる人物。
資料に名前が載っていないため、架空の人物である可能性が高い。
中略 ウィキペディア
大内氏は琳聖太子を祖先にすると言い張っているが、どうも違うようである。大内義弘は朝鮮半島との貿易を重視した。
その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したと思われる。 ウィキペディア
なるほど。
貿易の儲けで力を蓄え、戦国大名にのし上がっていく。最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配した。
その人物が言い出した琳聖太子(りんしょうたいし)の故事により・・という記述がある以上、金比羅山に北辰信仰の聖域がここに作られたらしい。
北辰は北極星の事で、古代中国では、あらゆる星が北極星を中心に巡ることから、全宇宙を司る星として、最高レベルの神として崇拝されている。
北辰は道教の思想である。
この場所を道教の聖域だと決めたのは、大内氏の関係者だと推測される。
なぜ、この場所が聖域だったのだろうか。
金比羅山がそんなに重要な場所なのだろうか。
金比羅山の昔の名前が無凡山という。
この無凡山という名前も大内氏の関係者がつけたのだろう。
無凡という文字は、今の日本人にすれば、「平凡ではない、優れている」と解釈されるだろう。
名前の説明には「風景が特に優れていて無凡である」という解説があった。
確かにこの場所は見晴らしがいい。
ぐるりと長崎を見渡せる場所である。
しかし、特別高いわけではない。
どちらかといえば、ごく平凡な山なのである。
無凡は平凡ではないという意味ではない。
特に優れている場合は、通常非凡というのを使うのだ。
この無凡は、「無凡不養聖、無聖凡不順」からきていると推理する。
清公生仏慈語 (清公は菅原清公の事だと思われる) 「凡聖不二」(ぼんしょうふに) 凡人も聖者も本質的には同じという意味のことわざの匂いもする。
凡は梵と音が同じで、インドの婆羅門(バラモン)教で、宇宙の最高原理の事である。
結構深い意味があると思う。
そして無凡山が北辰の聖域になった理由はただひとつ。
長崎地域の中心だったからである。