金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(8)

瓊杵田津(にきたつ)と呼ばれた長崎。

美しい玉という話しは、確か肥前風土記に載っていた。


彼杵の郡名の由来は諸説あるが、「肥前国風土記」では景行天皇が土蜘蛛と称された現地の豪族から得た玉を賞してこの地を「具足玉国(そないたまのくに)」と命名したとの故事を記し、転訛して彼杵と称するようになったとしている。


「具足玉」

この名前で、僕は単純に武士が付ける甲冑で足に付けた飾りだと思っていたが、調べてみると色んな意味があった。

ぐ‐そく【具足】[名](スル)

1 不足なく十分に備わっていること。「円満―」

2 武具。甲冑(かっちゅう)。特に、「当世(とうせい)具足」の略。

3 所有すること。

4 引き連れること。

5 道具。調度。

足(あし)ではなく足りるという意味だったのである。

不足なく価値が十分に備わっている玉の意味だろう。

賞賛の言葉としては最上級だと思う。

「具足玉国(そないたまのくに)」で彼杵(そのき)である。

彼杵郡。長崎の人間なら、馴染みのある地名である。

長崎では、西彼杵郡、東彼杵郡と別れている。


しかし、ふと思う。

長崎北部の彼杵(そのき)

今回の長崎の古名 瓊杵(にき)

島原の方は、高来(たかき)という。

長崎は「き」の国だったのだろうか。

日本で「き」の国と言えば、紀伊国だ。

7世紀に成立した当初は、木国(きのくに)であった。名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。

紀伊国には、空海の高野山がある。

何か繋がりがあるのかも知れない。

瓊杵田津(にきたつ)といえば、一般的には熟田津(ニキタツ)の事である。

にぎたつ【熟田津】
古代の港。《日本書紀》に斉明7年(661)の百済救援軍の船が大伯海(おおくのうみ)(現在の岡山県邑久郡の海)から伊予の熟田津の石湯行宮(いわゆのかりみや)に停泊したとある。

661年の百済救援軍の船が泊まったとされる港が「にぎたつ」ということである。

うーん。これも何か繋がりがあるかも知れない。

「瓊」が「丹」と同じ意味を持つとあった。

「丹」と言う文字にはピンと来るものがある。

長崎の地名の元になった長崎氏は、昔から長崎に住んでいた「丹治氏」一族だったという記録である。

この話しは、以前ブログに書いた。

歴史探偵
長崎の原風景(5) 古代長崎で繁栄していた丹治一族のルーツは土蜘蛛

丹治氏(たじし)とは

多治比氏(たじひうじ)は、「多治比」を氏の名とする氏族。
宣化天皇の三世孫多治比古王を祖とする。丹治比氏・丹?氏(たじひし)、多治氏・丹治氏(たじし)とも称した。河内国多比郡を根拠地とする。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_naga.html

いずれにしろ、長崎地方の在地領主で、遅くとも鎌倉初期には長崎浦の開発領主となって同地に住みついたところから、地名によって長崎氏を称したものと考えられる。

とはいえ、長崎氏は丹治比氏の一族ともいわれ、永埼とも書かれ、鎌倉・南北朝期以降に長崎に改めたという。

古代史フォーラム

丹生とは、上記“丹”の生産やその産地を“丹生”といい、ひいてはこの生産に携わる者たちをも丹生と言ったと考えられる。
この仕事を生業(なりわい)とした者達がいわゆる「丹生族」であり、これが丹生部であろう。
土師部、壬生部、丹治比部、埴生部は丹生部民とも関連する部族だったはずである。
私は、自作の物語『真朱の姫神』の中で、「古代ヤマトでいう丹とは硫化水銀(朱)、四塩化鉛(丹)、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄(赭)をいい、その生産・精錬を主に生業とする部族を丹生族といったのである」とした。

広い意味では、水銀はもちろん、金・銀・銅・鉄などの採鉱や精錬、土器製作や土木工事をも含む、凡そ土に関わるすべてに丹生部は係わっていたと思われる。

丹治氏の一族は長崎地方に住み着いていて繁栄していたことは間違いなさそうだ。

そして丹治氏の一族は土に関わる事に関わっていた。

長崎港の回りには平野や広い平地がない。

ということは、農耕ではないと言うことだ。

当然、海人、山人という事になる。

多治比嶋(624 – 701)は臣下最高位の左大臣となるなど大臣職を長く務め、当時政界の「最長老」であったという。

多治比嶋の子孫は、政変により中央の政治の場から去って行く。

その一族の末裔が長崎に住み着いたとも考えられる。

住み着いた理由は長崎に鉱山があったからだと推測される。

長崎の記録に「長崎市三ッ山町六枚板の川平金山」の記述がある。

藤野保編「大村郷村記 第六巻」「浦上木場村」から「金山の事」という文献が残っているのだ。

(『広助の丸山歴史散歩』 より。
その昔、六枚板地区のほとんどと川平郷の一部では数種類の鉱物の鉱区がありました。しかし、いづれも収支が合わない量ということで廃されています。)

*長崎の川平金山の規模が小さかったという事よりも、昔火山であったため、温泉も湧き海の幸と山の資源が豊富な地域だったという事を考えたい。

こうなってくると、瓊杵田津(にきたつ)と呼ばれた理由がわかる。

「玉杵名邑(たまきなむら)」というのも納得がいく。

玉(ぎょく・たま)とは宝石の事で主にヒスイを指すのだ。

ヒスイ(翡翠、jade)は、深緑の半透明な宝石のひとつ。

東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。古くは玉(ぎょく)と呼ばれた。

そして、翡翠は不老不死および生命の再生をもたらす力を持つと信じられていたのだ。

そして、日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていた。

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ヒスイの基礎知識

日本のひすいの産地

糸魚川地域(青海・朝日・小谷・白馬を含む)が最大の産地です。このほか、鳥取県若桜(わかさ)町、兵庫県 養父市大屋(おおや)、岡山県新見市大佐(おおさ)、長崎県長崎市三重、同市琴海、北海道 旭川市・幌加内町、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町、静岡県浜松市(旧引佐町)、熊本県八代市などからひすい(ひすい輝石岩)が発見されます。宝石になるようなきれいなものが多産するのは糸魚川ですが、若桜からはラベンダーひすい、長崎市 琴海からは灰緑色のひすいを産し、宝石にはならないまでも、なかなかきれいなものがあります

長崎県長崎市三重、同市琴海。

長崎市 琴海からは灰緑色のひすい。

こうはっきりと書かれていれば間違いはない。

瓊杵山(にぎやま)のと瓊は、翡翠のことを指していたのだ。

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コメント

  1. ぎんくじら より:

    唐津の宇木汲田遺跡の甕棺墓から長崎ヒスイの縄文勾玉が出てるそうです。弥生時代の墓から縄文系の勾玉がいくつも出るのは「大きなナゾ」だと本に書いてありました。単に伝世品をおさめただけで「大きなナゾ」はオーバーだろうと私は思いました。この甕棺に葬られた人と長崎県側の人とが知り合いだったとしても不思議はないと思うんですよ。長崎ヒスイだからといって持っていた人が古代の長崎県側の人だとは限りませんが。学者さんたちの頭の中では「肥前」に長崎県の本土側は含まれないのです。「まぼろしの邪馬台国」は読まれたとどこかで書いておられましたね。まさに宮崎先生がおっしゃるところの「鉄のカーテン」なんですよ。

  2. artworks より:

    長崎は色んな意味で、古代史の記述が少ないと思います。

    意図的に少ないのでは、という思いが強くなっています。

    「鉄のカーテン」という意味も理解できますね。