長崎の長人伝説 長与誕生の謎

長与

長与という土地がある。

大村湾に面した場所で、長崎の北側である。

現在の長崎は埋め立てられて出来上がっているが、長与は付近は平地がある。

北東端の堂崎では約2万年前の旧石器時代の石器が出土している。

長与堂崎遺跡

長与堂崎遺跡

この頃は現代より海水面が低く、大村湾は海ではなく盆地だったと考えられている。

 

古代長崎はそれなりに栄えて人が多く住んでいたはずなのだが、現在の中心地は埋め立てられているので、古代はまだ海だった。 以前より、古代長崎の中心地は長崎市内ではなく、滑石、時津方面かも知れないと漠然と考えていたが、いかんせん証拠が何もない。

 

しかし、事実長崎には平地がほとんどない状態だったのだ。

たとえば現在栄えている浦上川まわりだが、古代浦上川は川幅はひろく、江戸時代の伊能忠敬の記録によれば、平宗川は巾六間(11m)とある。

平宗川は現在の滑石一丁目付近である。浦上川はこのあたりまで蕩々と流れていたのである。 とすれば、昔から僅かながらも平地があった時津、長与あたりが、古代長崎の中心地だった可能性がある。

長与港

長与港

 

また、古事記にも時津、長与の名前が残っている。

古代の歴史に残っているのは、神功皇后が時津から上陸して一泊し、「長い夜」といったので、長与になったという話しがある。

長い夜の話は信用できないが、古代史に残っているということは、昔から存在していたということである。

古代、長距離の移動には船が使われていたので、時津に上陸し長崎港まで歩き、そこから船に乗る道があったようで、時津街道とも呼ばれている。

時津と長与はすぐ近くなので、ともに栄えたと思われる。

少し離れて諌早に喜々津がある。 時津、長与、喜々津と並ぶ。 このパターンで行けば、長与ではなく長津のはずなのだが、そうなっていない。

津というのは、船着き場のことなので、長与は船着き場でなかったということである。

地図をみれはわかるが、現在の住宅地はほとんど造成されており、古代の面影はなく、時津の宿場町として栄えたのかも知れない。  

長輿

ここでで気になるのが、長与という地名である。

長与の「与」を今の漢字ではなく、昔は「輿」という漢字を使用していた。

その事を最近知って、俄然興味がわいた。  

輿は轅(ながえ)と称する2本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物とある。

ウィキペディア

 

葵祭における斎王代の輿

 

鎌倉時代の文献の中に長与が「ながえ」と載っているらしい。

とすれば、長輿は「輿」関連だったことは間違いない。  

輿(こし)は、貴人が乗る乗り物である。

時代劇でもみるが、平安の貴族や天皇は、この輿に乗って移動していた。

神様が乗る輿は、今のおみこしで、まつりの主役である。

古代ローマ時代のレッティガ(レクティカ)。

 

という事は、長与の場所には貴人が乗る輿から名前がついたと思われる。

「長」いが主でなくて「輿」が主だったのだ。

 

時津は港町で、その場所に着いたら長与に泊るのであろう。

もしくは、長与から出発をする。

しかし、輿を使うような貴人が長崎を訪れたのだろうか。

神功皇后の話にも、輿の話題はない。

つまり大和の記録に載っていない、長与が重要な拠点だったという可能性がある。

しかも、ただの輿ではない。

長い輿である。

長い輿ということは、乗る人間が大きいという事である。

長い輿をみんなで担ぐ、そんな奇妙な光景がな時津街道で行なわれていた可能性が高い。

本当に長い輿にのる背の高い貴人がいたとしたら、その輿は普通と違っていて、みんなの記憶に残るだろう。

だから、長輿となった。

そして、それは鎌倉時代よりも前だったと思われる。

長与の地名についてもちろん他の説もある。

 

長い港だから長与といった。 長与 Life so Wonderful

「輿」には「とち」や「だいち」という意味があり、「長輿」は長く細い土地なので長与となった。

http://www.fmnagasaki.co.jp/program/nagayo/item/16939

 

これらの説を否定する気はないが、辺境の地だったなら「輿」なんていう文字は使わないような気がする。

「輿」に「とち」や「だいち」という意味があったとしても、長与は山に囲まれた狭い地域であり、大地というイメージはない。

「長輿」の「長」という文字の意味

背の高い長人と呼ばれる人たちがいたという伝説が中国にいた。

長人(ちょうじん)は中国に伝わる伝説上の人種である。

大人(たいじん)とも称され、東方あるいは海にある島に住んでいるとされる。ウィキペディア

『訓蒙図彙』(1666年、日本)より「長人」

あくまでも伝説なのだが、日本の古事記にも背の高い人々の話が残っている。

長髄彦である。

 

長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。

天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」ウィキペディア

 

長髄彦は神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長で、中世に武将として台頭した織田家(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。

長髄彦をモデルにしたと言われている景行天皇の身長が、御身長一丈二寸御脛長四尺一寸と書かれている。

1丈 = 3.030303 m 二寸は6センチ 3メートル6センチで脛の長さは1.2メートルほどである。

文字通りだと3メートルの大男である。

長髄彦は反大和の背の高い種族であったのだ。

生駒の長髄彦

生駒の長髄彦

 

巨人がいたという伝説は、日本各地に散らばっている。

関東のダイダラボッチ伝説

大人弥五郎

秋田県、福島県、長野県に手長足長 群馬県に百合若大臣

京都府に愛宕法師 岡山にさんぽ太郎

高知県に鉄巨人

この巨人伝説の巨人達の身長と能力は様々である。

長崎にも巨人伝説はある。

みそ五郎

みそ五郎という。

みそ五郎(ごろう)です。島原(しまばら)半島のあちこちに、みそが好物の大男がいたという言い伝えがあります。

長崎(ながさき)県南島原(みなみしまばら)市西有家町(にしありえちょう)では、秋に、巨大な像が練り歩く「みそ五郎まつり」というイベントもあります。

 

巨人伝説は世界中にある。

巨人

 

もっともらしく語られているが、途方もない物語だったりと信憑性に欠ける。

妖怪や都市伝説の類いか、自然災害の理由付けであった可能性が高い。

前述したように3メートル超える人類はいないとされている。

しかし2メートルの人々は多く存在する。

 

倭人と呼ばれる理由の一つに、背が低いことが挙げられている。

そこに背の高い種族が入れば、長人、巨人となる。  

結局、長崎の長与に、大和地方にいた長脛彦の一族がいたかということになる。

 

断言する。  

いたという根拠がある。

それは長崎市内の金比羅神社の立て札である。

今でもあるこの立て札には、天孫降臨の伝説があるという文章が記入されている。

皆さんご存じの通り天孫降臨は宮崎県の高千穂だといわれている。  

 

しかしもう一つの天孫降臨をした人物が長脛彦の一族だと古事記に書かれている。

天孫降臨した神様の名はニギハヤヒという。

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

金比羅山の別名は「にぎ山」という。大きな証拠だ。  

天孫降臨したニギハヤヒは物部氏につながり、大和、河内を本拠地にしている。

 

ニギハヤヒ

ニギハヤヒ

九州にまったく関係ないかというと、九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を行う為、九州にやってきている。また日本中に散らばった氏族として有名である。

佐賀、長崎は古代土蜘蛛と呼ばれた、反大和の集団が住んでいた。

 

 

長与の神社の神様たちは高天原のかみさまばかりだ。

そして、怪力無双のマッチョが多い。

 

長与の神社 戸隠神社 祭神は天手力男神

天手力男神

天手力男神

また隣の時津には 時津の神社 熊野神社 祭神は須佐之男大神

熊野神社 祭神は速玉之男命、健須佐之男命、事解之男命

 

須佐之男

須佐之男

もちろんこれ以外の神社もあるが、狭い地域にけっこうの数がある。

神社の創立も新しいので後年の方の思惑かも知れないが、もう一つの天孫降臨の高天原を敬ったと思われる。

大陸の窓口であった長崎と内陸へ向かう大村湾の港時津は、重要な道筋であり、その宿町であった長与は、中国で長人と呼ばれた長身の長脛彦一族であり、彼らは貴人として輿に乗って移動する。  

その輿の大きさは、長く大きな輿であったのだ。

それ故「長輿」と呼ばれたのだ。  

 

長与港内の金比羅神社

長与港内の金比羅神社

長崎は、大和の歴史とされる古事記や風土記などに、ほとんど載っていない。

土蜘蛛のはびこる未開の地として、無視しているような内容である。

しかし、事実として大陸の窓口であり、反大和といわれた人たちの文化があったのだ。  

これは事実なのである。  

 

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