日本の不思議なオーパーツ達
うつろ舟
享和三年(1803年)の浮世絵に宇宙船らしき物を発見したと、当時の浮世絵に書かれている。
「うつろ舟」とよばれ、かなり有名な話である。
以下はネットの情報である。
http://www.yaji-kita.com/ufo-3.html
曲亭馬琴「兎園小説」
享和三年の春二月二十二日、当時寄合席の小笠原越中守(石高四千)の知行所、常陸の国「はらやどり」という浜で、沖の方に舟のようなものが見えた。
■長橋亦次郎「梅の塵」 享和三年三月二十四日、常陸の国原舎浜というところに、異船が漂着した。
その船の形は、中が空のお釜のようであり、真ん中あたりに釜の刃のようなものがあった。
■駒井乗邨「鶯宿雑記」 享和三年八月二日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦の小笠原越中守様知行所より訴えがあって見分に向かったところ、右のような漂流船であること以外、詳しいことは全くわからなかった。
享和三年(1803年)という年は江戸開府200年という年である。
この時代に生きた人は、 伊能 忠敬、葛飾 北斎など歴史に名を残す人も多い。
文化的には成熟していた時代だといえる。 江戸後期である。
この話は兎園小説(トエンショウセツ)という随筆集に掲載されている。
曲亭馬琴らが発起人となり、好事家が集まって結成した会の記録本である。
曲亭馬琴といえば『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』が有名で、現代でいえば半村良さんというところであろうか。
虚舟(うつろぶね)奇談として図入りで出版されたものだが、空からやってきたとは一言も書いていない。 不思議な乗り物が流れ着いたという事だけである。
1803年はアメリカ船が長崎に来航し通商を要求した年である。
外国の新型船とか特殊な潜水艦かもしれない。
この虚舟をUFOと騒いでいるのは現代人だ。
たしかに図を見れば空飛ぶ円盤によく似ている。
虚舟を宇宙船と面白がるのは短絡的だと思うが、不思議なものが日本にもある。
江戸時代のスカイツリー
歌川国芳の「東都三ツ股の図」。
絵の左奥は対岸の江戸・深川辺り、細長い構造物が二つ見える。
http://matome.naver.jp/odai/2140345096661671801
江戸時代のスカイツリー
歌川国芳の「東都三ツ股の図」
絵の左奥は対岸の江戸・深川辺りで、他の建物を圧するような細長い構造物が二つ見える。左側の低い方は当時存在した火の見櫓(やぐら)とされ、その右の巨大な組み立て式の塔は実在しなかったという(毎日新聞 )
これはどう解釈すれば良いのだろうか。
東都名所シリーズは国芳が向島に住んでいた三十代ごろ、近くを散歩しながらスケッチした作品群である。
歌川国芳は本当に、未来のスカイツリーが見えたのだろうか。
火の見櫓は約九メートルである。
それよりはるかに高いことは、見ればわかる。
歌川国芳は才能溢れる絵師であった。
卓越したデッサン力と斬新なデザイン力をもち、江戸時代の天才グラフィックデザイナーといえる。
もし、歌川国芳がタイムスリップして「スカイツリー」を本当に見たのなら、江戸時代に戻った時、知らん顔して、その当時の風景にスカイツリーを書込んだのかもしれない。
恐るべし歌川国芳
合掌土偶
だいぶ時間を遡るが縄文時代の八戸市の 国宝「合掌土偶」が不思議である。
手を合わせている土偶も珍しいが、その格好が宇宙服のようである。
合掌土器はアメリカ大陸で最古の土器文化(前3000年ころ)バルディビアの土偶とそっくりである。
日本の縄文文化と時期が重なっている。
それ以外にも遮光器土偶、ハート形土偶など不思議な形状の土偶はたくさんある。
なぜ縄文時代に不思議な土偶が多くあるかという問いに、学問の世界では縄文人が創造力が豊かだったからという答えしか出てこない。
縄文時代は約1万3500年間、弥生時代は約1200年間といわれている。
しかし、縄文時代はどんどん長くなってきており、1998年に青森県大平山元Ⅰ遺跡で発掘された土器は14C測定で1万6500年前とされ、大きな話題となった。
教科書には約1万年前に氷河期が終わったと書いている。
これが正しければ、氷河期の中で縄文人達は土器を作ったことになる。
教科書に載っている4大文明の始まりだが、メソポタミア(BC3100ごろ~)、エジプト(BC3000ごろ~)、インダス(BC2500ごろ~)、黄河(BC1600ごろ~)と思ったより年代が若い。
いまでは4大文明という言い方はなくなり、学会でも否定されているのだが、日本の教科書には相変わらず載っているという事実は知る人が少ない。
縄文土器は、世界最古の土器の一つといわれている。
日本が世界最初の文明の発祥地だと言う人がいるのも頷けるのです。
弥生時代から現代まで2016年
縄文は16500年
その長さは桁が違うのである。
そんな縄文時代の不思議な土偶達を見て、ただの想像の産物だというほうが、想像力がなさ過ぎるのではないだろうか。