「いなさ」の謎

第1章

僕がワープロで文章を打つとき「いなさ」という文字を一括で変換すると「引佐」とかならずでた。

単語登録をすればいいのだが、何となく面倒で、度々この引佐という文字に、出会っていた。
最近、電子ブックの「広辞苑」を買ったので、 なじみのある「引佐」の文字を引いてみた。
ところがどこにも見当たらないのである。

漢和辞典で「引」という字を引いてみると、「イン・ひく」とあるだけで「いな」とは読まないのである。

キヤノンのワープロでも試してみると、引佐とでる。

実に不思議なことである。

なんだろう。この「引佐」とは。

すべてがここから始まった。

いん【引】(1)ひっぱること。ひきよせること。ひきのばすこと。
「―力」「吸―」「延―」(2)ひきいること。
「―率」「誘―」(3)ひきうけること。
「承―」(4)他を借りること。
「―例」「援―」(5)漢文文体の一。
序の類で短いもの。また、楽府(ガフ)の曲の一類。
(6)俳諧で、本文の誘引となる句や文。 広辞苑
とある。角川の漢和辞典では、会意で「人が弓を引きしぼること」を意味する、とあった。
「佐」は(1)たすけること。
「補―」「―幕」(2)旧軍隊・自衛隊の階級の一。
「大―」「―官」(3)佐渡国(サドノクニ)の略。
「―州」 広辞苑

ということは、「弓を引くのを助ける」ということになる。

つまり、いなさという文字のなかには「弓を引くのを助ける」という意味があるということだけは、わかった。

ぼくが知りたい「いなさ」とはもちろん「稲佐」のことである。

「稲佐」とはなんだろう。

地名か人名か、それとも、他の固有名詞なのか。

本からの抜粋
denmarkginga-img600x450-1401847453nxfdfz70178悟真寺は寺誌によれば、「終南山光明院悟真寺は、慶長三年(一五九八)の創立で長埼最古の寺である」と。
そして悟真寺となる以前のこの場所は土豪稲佐氏のやかたがあったところらしい。
悟真寺内の古井戸は長崎名勝図絵では「旧稲佐氏居宅のもの、或いは南蛮人の掘ったものという。
(深きは10尺ばかり〕とあるが現在の悟真寺では稲佐氏の井戸ということになっている。
「稲佐」は新長埼年表(長埼文献社)によれば
貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とあり、中略 宮方についた武士の中に稲佐治都夫輔の名がみえる(大平記・鎮西志・治乱記)。
「しかし、一三七八年「深堀安芸守時勝代中務丞時澄、足利方の今川了俊に属し…稲佐岳から自石妻山城攻略に参加し〕(深堀文書)という記録があり深堀氏以外に当地方に行動した武士として 有馬氏・時津氏・長与氏・大村氏・長崎氏・戸町氏・
福田氏・しきみ(式見)氏・浦上氏
などの名が見える中に稲佐氏の名は無く、正平17年(1362-足利尊氏の時代)の彼杵一挨連判状の豪族名にも記載されてないことからすれば南北朝争乱によって}1362年には既に滅亡・していたと推定される。略
貞観三年(861)この「稲佐神」の記録からすれば、むしろ、稲佐神社所在の稲佐という対岸地区の地名から稲佐氏を名乗ったとみるぺきである。略

その稲佐の語源はタケミカズチノ神とアメノトリフネノ神が「出雲の国の伊那佐の小浜に降りつきて」に名高い「伊那佐」とおなじく、「イナ」が砂地、「サ」は接尾語でおって稲佐埼の下の磯が小砂丘をなす美しい砂浜であったことから、その付近一帯をイナサと称し、更に稲佐からその南にかけての地域も稲佐に含めて称したものである。(稲佐風土記 松竹秀雄先生.著)

松竹秀雄先生とは、何度もお話しを伺ったこともあり、博識な紳士である。

もちろん長崎学の専門家であり、著名な方である。

その先生の説に僕としては納得いかないものをかんじていた。

それは稲佐の語源である。

「稲佐埼の下の磯が小砂丘をなす美しい砂浜であったことから」とある。

しかし本当に小砂丘だったのだろうか。

たしかに「いなさ」の語源は、そうであろう。

いなさ山という名はほかにもある。

【伊那佐山】奈良県東部、榛原(ハイバラ)町南部の山。海抜六三八メ-トル。記中「いなさのやまのこのまゆも」

広辞苑・の場合、文字も一致し、何といっても大和の本拠地であり、古事記からの引用も納得いける。

だが、長崎の稲佐は違うと思う。

まず、長崎のことを書いてある古書に「美しい砂浜」というイメージで対岸のことを記しているものがない。

「稲佐も五島町も海岸は、崖に近い地形だった。

その付近は荒磯でそうでないところは、葦がぼうぼうと生えて、どの辺が深いかわからなかった。

その間を港は現在の竹の久保付近までは深く入り込んでいたのである。

「海水みなぎり西北深く、にぎ山(金比羅山)の麓付近から、もっと北の方まで海であった。
と旧記にも出ている(東の方、いまの中島川の流域も昔は海)。

深い入江だったから、「深津江」又は、「深江」といったのだろう。長崎辞典
とある。

こちらのほうをとりたい。また、昔いさな近辺は淵村に、含まれていた。

そのふち【淵・潭】という文字は、(1)川・沼・湖などの水が淀んで深い所。という意味である。

肥前 長崎稲佐長崎名勝図絵にかかれている、対岸の風景は美しい砂浜というより、岩場であり、ここでもまた、イメージが違うのだ。

もちろん砂浜も、1部あったかもしれないが、「美しい砂浜=いなさ」という程でもないと思われる。

さらに長崎港は学校でも習ったとおりリアス式海岸である。
リアス式海岸というのは浸食された山地が、地殻運動または海水面の変化のために海水の浸入を受け、複雑な海岸線をなしているものをいう。
やはりイメージが違う。

(歌川広重: 「六十余州名所図会」「肥前 長崎稲佐」)

イナという音が砂浜を表わすことは、一般的な学説である。

だが稲佐のイナは砂浜ではない。とすればなんであろうか。

第2章

イナという音が砂浜を表わすことは、一般的な学説である。と書いたが、松竹先生の説明をもう一度はんすうしてみた。

現在使われている漢字から意味を推測しても、正当な解釈は出てこない。とある。

ここは同感である。

「イナ」も「イサ」も古代から砂地の意味をもつ地名となっている。

伊讃とか伊佐などの大方は砂地を意味する地名である。

稲佐.引佐.などの「イナ」は、砂地.または、砂丘.砂州などのところの地名であり、「サ」は、接尾語-小さいを意味する接尾語である。

つまり、「いな」と「いさ」は、同系統の言葉であると述べられているのだ。

このあたりは、先生は南方系の言葉の変化については、著書もあり(南島ノート.春苑堂書店)思いつきで述べられたのではないことは、十分理解できるが、やはり、推論でしかない。

たとえば「イサ」とは-いさ【鯨】クジラの古称。いさな。壱岐風土記逸文「俗(クニヒト)、鯨を云ひて伊佐とす」とある。

これは一例だが、「いな」と「いさ」は、違う場合もあるという事をいいたい。

また「サ」が小さいを意味する接尾語だという説明も、安易すぎるのではないだろうか。

接尾語とはある語の末尾に添えて、意味を加え、またはある品詞に一定の資格を与えるもの。
「幾ら」「親しげ」「深さ」「赤み」「絶対的」の「ら」「げ」「さ」「み」「的」の類.とある。

しかしこれは、あくまでも、日本国語と解釈される場合のみ適応する。

つまり、言葉自体が、日本語体系ではない場合、誤訳に陥る元となる。

ある本によると古代文字の解釈の際、わからない文字はすべて接尾語.接頭語として処理している事に、大いに驚く。とある。

例えば「あがさ」という言葉がある。

「あが」が上がるの意で「さ」は、それにつく接尾語である。と国語の先生から聞かされたらそうだなと思うだろう。
だが実際には「あがさ」は「アガサ」であり、小説家のアガサクリスティのことだった。
いじわるすぎるが、こんな可能性が山ほどあるのではないだろうか。

「いなさ」という呼び方が、記録に出ているのは、「稲佐」は新長埼年表(長埼文献社)によれば貞観三年(861)この記録として

「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」

である。

三代実録とは(さんだいじつろく)とよみ六国史(リツコクシ)の一。
五○巻。
文徳実録の後を受け、清和・陽成・光孝三天皇の時代約三○年の事を記した編年体の史書。
901年(延喜一)藤原時平・大蔵善行らが勅を奉じて撰進。とある。

この本のなかにまず861年という数字が出る。

つぎに「空海人唐の折」とある。これは804年(延暦23年)のことである。

百済国聖明太子。百済国は古代朝鮮の国名で、「くだら」とよんでいるが、「ひゃくさい」が正しい。

660年31代で滅亡している。

聖明王像聖明太子とは百済第26代の王。538年(一説に552年)、欽明天皇の時、わが朝廷に釈迦仏金銅像・経論などを献じ、仏教を伝えた。
後に新羅と戦って敗死。

聖王。(在位 523~554)(―~554)とある。

これだけの資料で何処までさかのぼれるだろうか。

祭神は百済国聖明太子とあるので、祭神としたのは国が滅亡する前のことであろう。

また神として奉るのは普通死後である。

ということは、555~660年までという数字が出てくる。

すなわち西暦555年から「いなさ」という名称をつかっていたという可能性がある。

本当はもっと古いのかもしれないが、それは想像の域をでない。

その時代には、どんな言葉を使っていたのだろうか。

それが「いなさ」の語源を追求することになるだろう。

こんな古い時代の言葉の研究というとうってつけのものがある。

それが万葉集というものである。

辞典によると (万世に伝わるべき集、また万ヨロズの葉すなわち歌の集の意とも) 現存最古の歌集。二○巻。
仁徳天皇皇后の歌といわれるものから淳仁天皇時代の歌(七五九年)まで約350年間の長歌・短歌・旋頭歌(セドウカ)・仏足石歌体歌・連歌合せて約四千五百首、漢文の詩・書翰なども収録。
編集は大伴家持(オオトモノヤカモチ)の手を経たものと考えられる。
東歌(アズマウタ)・防人歌(サキモリウタ)なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表し、調子の高い歌が多い。とある。

万葉集は、ご存じのとおりさまざまな研究がなされている。

このなかに、「いなさ」の言葉のいみを解明するものが必ずある。

そう信じた。

そうして、万葉集関連の本を読み漁っていくに連れて、面白い本たちにぶちあたったのである。

第3章

万葉集には、解読不明な歌や文句がかなり多い。

解読書には特に初期の歌や、枕詞など意味不明が定説である、といった記述も多い。

ところがその文章を韓国語で読むとすんなり意味がとおるといった人々がいる。

これは、テレビなどですでに紹介されており、内容を知っている方も多いと思う。

僕がなるほどとおもった本をあげてみる。

もう一つの万葉集 李 寧煕(リ.ヨンヒ)著 文芸春秋社  1989発行
枕詞の秘密    李 寧煕(リ.ヨンヒ)著 文芸春秋社  1990発行
額田王の暗号   藤村由加著       新潮社   1990発行
人麻呂の暗号   藤村由加著       新潮社   1989発行
記紀万葉の謎 ことばのタイムトンネル 藤村由加著 実業之日本社 1995

これからの文は上記の本からの引用である。

略-万葉集はそのほとんどが古代韓国語で詠まれております。
略-韓国語混入の割合についてはまだ正確に掴んででおりません。
全文韓国語の歌もあれば一部韓国語の歌もあり、そのまま日本語ですんなり訓めてしまうものもあります。
古い時代に詠まれた歌ほど韓国語の割合は多くなっているように思えます。
本書ではおもに難訓歌をとりあげましたので、ほとんどの歌が韓国語です。
韓国語なるがゆえに難訓とされていたのでしょうから、これらの十一首から類推して、四千五百十六首のほとんどが韓同語であると決めつけることはできないと思います。
しかし、概して前半部は大半が韓同語で詠まれていると申せます。
さらに「枕詞」がほとんど幹国語でありますので、古代韓国語で解読しな いかぎり正確に訓めない歌の数は、万葉集のほぽ全首におよぷといってさしつかえないでしょう。略。
なぜなら、これらは万棄仮名で表記された韓国語を、日本語であるという前提に立って再創作した歌集であるからです。省略。
もう一つの万葉集 李 寧煕(リ.ヨンヒ)著 文芸春秋社 1989発行

この本はかなり強烈で、すべての韓国語式解読を承認しかねる所もあるが、日本国の言葉のルーツを考えると、筋が通っており十分理解できる。

だが、どうも騒いでいるのは、「素人」達ばかりであり、「玄人」いわいる国文学者たちは、黙殺している感がある。

この理由は皆さんで憶測していただきたい。

問題の多い枕詞にも、こういう引用をしている。

-抜粋-
枕詞は従来、「意昧が失われたまま伝承された」和歌の修辞用語となっている。
日本国語大辞典の定義はつぎのとおりだ。
「古代の韻文、特に和歌の修辞法の一種。
(中略)一定の語句の上に固定的について、これを修飾するが、全体の主意に直接にはかかわらないもの。
被修飾語へのかかり方は、音の類似によるもの、比楡・連想や、その転用によるが、伝承されて固定的になり、意昧不詳のまま受け継がれることもおおい。
この修辞を使用する目的については、調子を整えるためといわれるが、起源ともかかわって、問題は残る。」と、まあ「日本の玄人」も、わからないと明記していることをあげている。

日本語のなかの韓国語というのは、限りなくあり、私たちは、普段気付いていない場合が多い。

1996.5.11ニュースステーションで日本語のルーツを調べている特集があり、そのなかに、宮崎県南郷村の例を上げている。

南郷村の伝説に7世紀後半百済王国が滅亡したさい、王族や高貴な人々が九州に逃れ、最後に南郷村に住み着いたという。

南郷村には王族を祭る神門神社(みかどじんじゃ)があり銅鏡などがのこっている。

そして南郷村の方言に韓国語が混じっているのを確認できるという。

今だに使われている言葉に「ヒンダレタ」(疲れた)ある。

現在、ソウルなどでは「ヒンデレダ」というが「ヒンダレタ」でも、十分通用すると、韓国人のレポーターが述べていた。

そのほか「アユデ」(歩く) 「コクル」(倒れる)などがあり、韓国朝鮮の言葉に近いものが多いと言う。

ここで興味深いのは、イントネーションがそっくりという点である。

たとえば、
「テゲ ヒンダレタ」(大変、疲れたの意)など、最後の部分を上げるように話す話し方は、僕達が聞くと田舎クサイと感じるのだが、韓国語のイントネーションはこの田舎クサイ話し方にそっくりなのである。

国際交流員の高 銀江(コウワンカン)さんは「これほど似ているとは思わなかったので大変おどろいた。昔は韓国と日本は同じ言葉を話していたような気がする。」とテレビのなかで話している。

「ひんだれた」と言う方言は長崎にはないような気がするが「ずんだれた」というのはある。

だらしがないという意味だ。

「こくる」なんてのは今でも「こけた」といって使っている。

本当に上げるときりがない。

これらの事実はもちろん昔から言われていたのだが、教科書などに載らないため、僕達が知らないだけなのである。

第4章

藤村由加氏は、もう一つ面白い指摘をしている。

旧かなづかいのことである。

現在、いくら韓国語が日本語に混じっているといわれても、いまいちぴんとこないのは、現在の韓国語を聞いても、全然わからないからである。

それは、韓国語が変化したというより、日本語が、かなり変化したと考えたほうが真実に近いのだろう。

僕達の年齢は教わっていないのでわからないが戦前の人達は旧かなづかいというものをしっていた。

五十音のわ行である。

昔はこう書いた。

「わゐうゑを」(wa we wu we wo)と発音する。

平安中期まではこう発音していた。

「うぃ」とか「うぇ」と言う言葉が現実に使われていたのだ。

また、「ちょうちょ」の事を「てふてふ」とかく。

「かふふ」とは、山梨県の甲府の事である。

40年ほど前は、実際につかわれていた。

これは、旧かな表記である。

僕はこんな書き方をして不思議だなーとつくづく思っていたのだが、ここに、韓国音があったのだ。

九州生まれの老人の方は「関係」を「くわぁんけい」と言う。

「菓子」を「くぁし」という。韓国音では「関」は「Kwan」.菓は「kwa」という。

つまり、韓国音で話していたのだ。

また、「甲」のよみは韓国音では「kap」と発音する。
韓国語の語尾の音の「P」は、旧カナではすべて「ふ」とかく。

旧カナで「かふふ」と書くのは、正しい韓国音であり、昔の日本人は「は行」を「ぱ行」で発音したとも言われているので、実際に「かぷぷ」と言っていた。

(概略)記紀万葉の謎 ことばのタイムトンネル 藤村由加著 実業之日本社

Macintoshで「ことえり」を使っている人がいたら「きゅうかな」と書き変換してみるといい。
・.・.・ などという言葉が出てくる。

昔の言葉は、今の言葉と違っていたのだ。

これは、真実である。

さて、万葉集に戻ろう。

「いなさ」の音を探すと引っかかるものがあった。

「伊奈牟之呂」「伊奈武思呂」「伊雛武斯慮」と言う言葉である。

これらは、すべて「いなむしろ」と読まれ、稲で編んだ席。敷く.交じわす(重ねる)などの状態をいう。

川などにかかる枕詞(従来の解釈)。
とある。この解釈こそ意味不明である。

つまり「いな」は稲。「むしろ」は、ムシロ(ござ)だといっている。

川にかかるとあるが、いなむしろの川とは、なんであろうか。

実際、本文との脈絡がなく意味不明なのである。

ところが李 寧煕(リ.ヨンヒ)さんが韓国語でよみ解くとすべて違う意味であるという。

「伊奈牟之呂」は「いねもっがら」すぐ、いけぬ。

「伊奈武思呂」「伊雛武斯慮」は「いねむちゅろ」すぐ攻めて、となるという。
(伊奈は.いな.ともよむとある。)

詳しい説明を知りたい方は、前記にあげた本をお読みください。

この「いな」を第一候補と上げたい。

つぎは「さ」だ。

この字は、単音がゆえに、さまざまなとり方があり、接尾語、副詞、名詞等の可能性がありすぎる。

ただ「いな」が「すぐ」という意味に考えると動詞.名詞等にしぼられる。

「すぐ」とは、ただちにとか、時間をおかずなどの意味の副詞である。

ただこの「すぐ」という言葉だけでみると「まっすぐで、まがっていないこと。」という意味もある。こちらは名詞である。

僕は熟考の上、つぎの意味をさがしあてた。

「ひさかたの」である。

比佐迦多能(ひさかたの)(記二七)
▼類似表記…「久堅之」(一六七他)「比佐箇多能」(紀五九)他。
▼従来の解釈…「阿米」「阿麻」「天」「月」「都」などにかかる。
悠久で堅画なもの、久遠なものなどの意識で用いていたものと思われる。
▼真の意味 韓国語で「ビサガダッヌン」と読む。
「ビ」は光.日「サ」(L音の子音をつける。)は「矢」「ガ」は、行く。
「ダッヌン」は着く。「光矢(光線が)行き当る(突きあたる)」「久堅之」は「堅い」「堅固だ」(グゴンジ)の意にも二重によめる。
この「さ」である。意味は「矢」である。

第5章

「いなさ」とは「まっすぐな矢」の意味だ。

「いなさ」という言葉を、稲佐.引佐.と古代の人々は、表記した。

つまり、字を当てたのである。

何故だろう。

この字を当てた理由があるはずだ。

まず「引佐」である。

引の字の成り立ちを調べてみる。

「弓を引っぱる事をしめす」「弓が真直ぐにすすむさまを表す」会意で「人が弓をひきしぼることを意味する。」角川漢和辞典。

佐はたすける。という意味である。

左が音を表すので、人の事をいっている。

つまり、真っすぐに弓を引く人と読み取れる。

次ぎに「稲佐」である。この「稲」の字で、まっすぐな矢を意味するもの。

それは「稲妻」である。

「稲の夫(ツマ)」の意。稲の結実の時期に多いところから、これによって稲が実るとされた(1)空中電気の放電する時にひらめく火花。多く屈折して見える。また、それが空に反映したもの。動作の敏速なさま、また瞬時的な速さのたとえに用いる。

稲妻というとあの独特の形のほうを先に思い浮かべるが、

そうではなく、韓国音の「いなさ」が「まっすぐな矢」いいなおすと、「速い矢をうつ人」イコール「いなづま」の連想というふうに来ても、それほど無理はない。

また、いな‐ぎ【稲城】(古く清音)(1)稲を家の周囲に積んで急場の矢防ぎとしたもの。
記中「―を作りて待ち戦ひき」という言葉もあり、「ゆみ」にいろいろ絡んでくる。

音を漢字で表す場合、2重、3重の意味を重ね合わしているところが、みそなのである。

例えば「卑弥呼」である。

「ひ」という読みを「卑」とあてている。
べつに「日」でも「比」でも音は同じだから構わないはずなのだが、「日美乎」とは、書かなかった。

それは、「卑弥呼」にたいして、蛮国の女酋長というイメージをあてはめているからである。

「日美乎」と書くと、天女の如きのイメージになってしまうからである。

「ダンス.ウイズ.ウルブス」(狼と踊る男)とおなじように「イナサ」(速き矢を射るもの)または、(稲妻の矢を射る男)となり稲佐氏の勇猛さが現われてくる、かっこいい名前なのだ。

もちろんこれは、推論である。

美しき砂丘をあらわす「いなさ」もあるだろう。

植物の「稲」から来ているのもあるだろう。

だが、長崎の「いなさ」は韓国音である可能性が非常に高いのだ。

これから、その状況証拠を検証していきたいと思う。

第6章

「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」

この文章でおかしいことにきずいた。

稲佐神の祭神は百済国聖明太子とある。

ここがおかしいのだ。

百済国聖明太子とは百済第26代の王さまである。

538年(一説に552年)、欽明天皇の時、大和朝廷に釈迦仏金銅像・経論などを献じ、仏教を伝えたとあるが、祭神に異国の王さまを祭るとは、解せない。

これが第一の素朴な疑問である。

さらに空海は仏教をめざし唐にいった。

そのときに仏罰であろうか。稲佐に異変が起きる。それを怪異と表現している。

怪異とは(1)あやしいこと。ふしぎなこと。(2)ばけもの。へんげ。の事である。

そして海蔵庵というお寺を新しく作ったとある。海蔵とは「仏の説法」をいう。「仏の教えの寺」という名称になる。

つまり、稲佐にばちがあたったから寺を建てた。 という事になる。

なぜか。それは百済国聖明太子にあった。

百済国は唐と新羅の連合国軍に滅ぼされたのだ。

つまり、稲佐神の祭神が百済国聖明太子だから、怪異が起きたとかいてあるのだ。

そして、正しい教えを広めるために寺を建てた。そう解釈できる。

もう一度解りやすく解説しよう。

稲佐神とある。

稲佐という名前の神様なのか。

だが、そういう名前の神様は、日本神道のなかには見当たらない。

そうすると稲佐神(社)のことなのか。

後世、稲佐神社という名称になるが、神道がはっきりと形になるのは、聖徳太子のころからであろう。

ということは、この「稲佐神」という時代は、さまざまな宗教が渾然とある時代に「稲佐の人々」が崇めていた「神」の事を漠然と差し示していたのだろう。

その神が「百済国聖明太子」だった。

宗教の基本形に「祖先」を祭るというのがある。

まさにその事ではないか。

稲佐の人々は百済国聖明太子が祖先だった。という結論が導かれる。

百済国は建国当初より「日本」と提携し、高句麗に対抗したが、
任那(ミマナ)の滅亡後、大いに衰え、唐・新羅(シラギ)の連合軍に破られ、660年滅亡。
空海は804年入唐。
唐は618~907年 新羅は668年朝鮮全土を統一して、935年に滅亡。
遣唐使は630年に始められている。

さまざまな数字を羅列したが、この辺りは、だいじなのでよく覚えていてほしい。

百済国は建国当初より「日本」と提携し、高句麗に対抗したとある。

日本書記にも日本府が任那にあると書いてある。

みまな【任那】
四~六世紀頃、朝鮮半島の南部にあった国。
加羅の諸小国の連合国家で、任那加羅(金官)ともいい、四世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本書紀によれば、日本府という軍政府を置いたというが、これについては定説がない。
やがて北の高句麗や東の新羅に圧迫され、五六二年滅亡。

日本は百済国と軍事提携をしていた。

だが、唐と新羅に負けた。

660年のことである。

そして遣唐使は630年に始められている。明らかに重複しているのだ。

高度な政治的外交ともとれるが、すっきりとした解釈が1つだけある。

それは、2つの「日本」の存在である。

これらは「古田武彦」氏の一連の書物に詳しく述べていることを簡単にまとめただけである

が、ここでは「九州古代史の謎」荒金卓也著の言葉をかりてみる。

古代九州の事というと邪馬台国のことは、避けられない。

魏志倭人伝という中国の魏の史書「魏志」の「東夷」の条に収められている、

日本古代史に関する最古の史料に倭のことが書かれてある。

そのなかにある「やまたいこく」とは二世紀後半から三世紀前半の頃の倭(ワ)にあった最も強大な国。女王卑弥呼(ヒミコ)が支配。魏(ギ)と交通した。

位置については、九州地方と畿内地方との両説がある。と広辞苑に載っている。

「古田武彦」氏は、この中で大事なことを発見した。

それは「やまたいこく」名前のことである。

魏志倭人伝の原文には「邪馬台国」とは書いてないのである。

「邪馬壱国」と記入されている。

ところが一般的に使われているのは「邪馬臺(台)国」という字である。

壱(いち)と臺(台たい)。よく似ているが、全然違う字である。

学者の先生は、こういっている。

魏志倭人伝の原文には「邪馬壱国」と書いてあるが、それは「邪馬臺(台)国」誤りであると。

「邪馬壱国」では「やまいちこく」としか読めないが「邪馬臺(台)国」だと「やまだいこく」さらに「やまと」と読めるのだ。

「邪馬壱国」を「やまと」にしといたほうが「日本書紀」「古事記」にかかれていることの説明に都合がいいのである。

まさに我田引水の極みである。

一字違えば大違いである。
「はけに毛があり、はげに毛がなし」昔からこう言っているではないか。

これは、大事なことである。「邪馬壱国」(やまいちこく)という事であれば、大和(やまと)の歴史に惑わされなくてすむからである。

「邪馬壱国」という国が九州にあった。

「大和」という国も近畿地方にあった。

そして「大和」の国の勢力拡大により、「邪馬壱国」は「大和」に飲み込まれていった。

こう考えても、全然無理がないのだ。

ところが「大和」の国の歴史は、「神代」からとなっている。

天皇の子孫は神様という事になっているので、九州に「邪馬壱国」という強大な国家が、存在していたとなると、いろいろと都合の悪いことが「大和」に出てくる。

主に「天皇家」の威信と神格化を、政治に利用しながら「大和」は大きくなってきた。

江戸、明治、大正、昭和と「国粋主義」(自国の歴史・文化・政治を貫く民族性や国体の優秀性を主張し、民族固有の長所や美質と見なされるものの維持・顕揚をはかる思潮や運動。超国家主義と結びつきやすい。)なかで、あたりまえのの事が当り前で通用しなかった。
現代だってそうである。天皇陵の学術調査さえ、「畏れ多くて」出来ないのである。

大和の歴史では、6~7世紀には、日本国はすべて「大和」の支配下にあったとなっているのが「通説」だが、実際は、統一はもっと後だったと考えたほうが自然だ。

荒金卓也氏は、具体的にさまざまな事柄を解りやすく検証しているが、一つだけ述べよう。

大陸側の歴史(宋)の本に「倭」の天皇の名前が5人記録されている。
讃、珍、済、輿、武という名前である。

425~479年の間である。大和の歴史では「仁徳」天皇がいた時代である。

学者は「大和」の歴史にあわせようとこの、讃、珍、済、輿、武をこじつけて、説明しようとしているが、やはり無理があるので「解らない」としている。

素直に考えると大陸側の宋の国が「倭の王」と交際したのは九州王国の「天皇」であり、「大和」ではなかったとなる。

なんの問題もない。

懸命な先達の「受けうり」で申し訳ないが、古代長崎を正確に検証するには、この事を抜きにして語れない。

さて、「長崎」の「稲佐」に戻ろう。

第7章

「稲佐神の祭神は百済国聖明太子」と記録にのこっているところをみると、それほど小さな集落ではなかったのだろう。

稲佐神はどこにあったのかというと、記録にのこっている「稲佐神社」は、現在の飽の浦にあるコガネ山恵比須神社である。

ここに間違いはないだろう。

神社というのはどこもかしこも作らない。

なにかしらそこに作る訳がある。

前述の証明で555~660年という数字が出てきた。

6世紀なかばから7世紀なかばである。

くりかえすが、もちろんもっと古い可能性もある。

聖明太子は大和朝廷に釈迦仏金銅像・経論などを献じ、仏教を伝えた。となっている。

だが前述の説明どおり、この時代には大和朝廷の力は九州に及んでいない。

「百済国」は九州王国の「倭」との同盟関係という事をかんがえれば、百済国建国当時から、九州へ百済人が移住していた可能性は大きい。

そして「倭」の本拠地である場所(たぶん福岡あたり)を避けて百済人集落を作ったであろう。

長崎は天然の良港である。

稲佐神の記述を考えれば、長崎に百済人集落があったことは確定に近い。

ほかの記録に長崎の古代人のことを書いたものがないかをさがしてみた。

肥前国風土記というものがある。

(713年(和銅六)の詔によって奈良中期に撰進されたものと考えられる。

そこにこういう記述がある。

長崎市域の一部に関わるとみられる肥前国浮穴郷に浮穴沫媛(うきあなのあわひめ)という土蜘蛛がおり、天皇の命令に従わなかったため、景行天皇に退治されたという記述がある。

肥前国浮穴郷がどこだか比定が出来ないのは残念だが、推理は出来る。

一般論として「牧島」付近ではないかという説がある。

それは牧島にかなり大きな集落の跡が発見されている。

曲崎古墳という名前である。かなり有力である。

だが、浮穴というイメージにかける。

浮穴とはなんだろう。

広辞苑にものっていない。類似語に「浮岩(うきいし)」というのがある。

水面に半ばをあらわして浮いたように見える岩のことである。

浮穴というのはそんな岩にあいた穴のことである。

いわいる奇岩のことだ。

場所に関しては、野母崎辺りだという説。

七つ釜鍾乳洞という説。

諸説あるなかで奇岩のイメージのある所。

僕はそのなかの候補に「岩瀬道」を上げたい。

岩瀬道の解説によれば、岩背洞とむかしは、表記していた。

三投石

三投石(文献叢書 196~201頁 所在地 長崎市岩瀬道町)

長崎名勝図絵をみてみると確かに奇岩である。

洞とはほら。ほらあな。の事である。

身投げ岩といわれるのっぽの岩が大きくかかれてある。

洞と呼んでいたのだから、洞穴もあったのだろう。

状況的には浮穴郷と呼ばれても不思議ではない。

もう一つ大事なことがある。「沫媛」の存在である。

「沫媛」は、土蜘蛛の首領である。

「媛」と呼ばれているからには、位の高い女性であろう。

だが、アマゾネスではないのだから、蛮族の女酋長というより「卑弥呼」と同じ「シャーマン(巫女)」であろう。

「シャーマン(巫女)」が住んでいるところは、いわいる「神社」である。

浮穴沫媛は浮穴と呼ばれている(神聖な場所)地域に誇り高き巫女としてすんでいた。

「土蜘蛛」と呼ばれた豪族は、その一族を賄える場所に住んでいた。もっと突き詰めるなら、

「土蜘蛛」と呼ばれたのは、1つの豪族ではなく小さいながらも連合国的であったのであろう。

わざわざ肥前国風土記にかいてあるのである。10人位の小グループの事ではない事だけは確かである。

それと「邪馬壱国」風の政治体系である。

「邪馬壱国」のコピー縮小版ととらえても、間違いではない。

土蜘蛛という言い回しは、いかにもきみの悪い部族というイメージを植え付けているが、本来「くも」という言葉は力強い意味をもち、強力な軍隊というふうにもとれる。

また「大和」人ではないことも強調している。

だが、その親分格の女性には「媛(ひめ)」とよび、卑しめてはいない。

これは、どういうことかというと、大和よりレベルが高い国の出身であることを暗黙のうちに認めていることになる。

大陸からの渡来人で、滅ぼしていいものとなると「百済一族」ということになる。

違う角度からみてみよう。

遺跡である。

残念ながら長崎の遺跡発掘は悲しいくらい進んでいない。

乏しい資料から判断しよう。

弥生時代のものとみられている遺跡は、現在「手熊」「福田」「城山」「深掘」にみられる。

稲佐はどうかというと今の所なにもない。

だが、遺跡群を大きな円で囲ってみるとその中心にあるのが稲佐山なのである。

ちなみに福田にも大きな穴のあいた奇岩がある。

すべて「稲佐神」イコール「浮穴沫媛」をさし示している。

「イナサ」=「早き矢を射る者」=「土蜘蛛」である。

浮穴沫媛は百済国聖明太子をまつり、この地域のナショナリズムのシンボルであり、シャーマンであった。

「イナサ」の語感に付け加えたい事が一つある。

韓国ではお寺のことを「~サ」という。

弥勒寺のことは「ミルクサ」定林寺は「チョンリムサ」という。

「伊奈寺」とかくと「イナサ」と読むのだ。

いま、「稲佐神社」は飽の浦にある。

飽の浦とは珍しい名称なのだ。

そのまま読むと意味が通らない。

「あくのうら」は「あわのうら」の変化とみれる。
隣の浦が「水の浦」という。

「飽の浦」は「泡の浦」だったのだろう。

泡(あわ)といっても、汚らしいあぶくではない。

波が岩にくだけちり、白い波の泡が生まれてはきえる。

「沫媛」とはまさにこの事であろう。

沫媛とは色白で華奢なまさに王族の末裔の美少女だ。

はかなげな白い波の泡のイメージがわく。

それと「滅んでしまった祖国(百済国)」にあわせたイメージネームかもしれない。

そのゆかりの場所、それが「飽の浦」だったのであろう。

第8章

こがねやま恵比須神社現在「稲佐神社」は「こがねやま恵比須神社」となっている。

祭神は事代主神である。

ことしろぬし‐の‐かみ【事代主神】日本神話で大国主命の子。

出雲国で父をたすけて国政に当ったが、国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣(アオフシカキ)を作り隠退したという。

ありふれている神様である。

「稲佐神の祭神は百済国聖明太子」との関連はどこにもない。

しいてあげれば恵比寿というのは外来神だという点だ。

現在、海上・漁業の神、また商売繁昌の神として信仰されている、普通の神様である。

しかしこの「こがねやま恵比須神社」には、不思議な話しが1つだけある。

「稲佐風土記(松竹先生著)」のなかにこう書いてある。

「恵比須神社」の前に小島があって金島(こがねじま)といっていたという。
金島(こがねじま)の下半分は金であるが掘ってはならぬという言い伝えがあったという。長崎名勝図絵の風景 33 恵美酒社(恵美須神社)

長崎名勝図絵の風景 33 恵美酒社(恵美須神社)

現在は埋め立てられて、探しようのないのが残念である。

たわいのない伝説かもしれないが、浮穴沫媛一族の事を考えると、重大な意味があるのだろう。

先日、稲佐山に上ったときに「稲佐山神社」と書いてある鳥居があったので上がってみた。

公園の一部になっていて、きれいに整備されていた。
建物かなにかあるのかと思っていたら何もない。

石垣の台座に石の小さな名前のないほこらが1つあるだけだった。

しかしそのほこらの前に汚い木の箱が置いてありそこには「八大竜王神」と墨でかかれてあった。

それほど古いとは思えないが、これだけが頼りだった。

「八大竜王神」はち‐だいりゅうおう【八大竜王】
難陀・跋難陀(バツナンダ)・娑伽羅(シヤカラ)・和修吉(ワシユキツ)・徳叉迦(トクシヤカ)・阿那婆達多(アナバダツタ)・摩那斯(マナシ)・優鉢羅(ウハツラ)の八竜王の総称。
法華経の会座に列した護法の竜神。水の神、雨乞いの神ともされる。八大竜神。

とあった。 これは「海蔵庵」とつながる。

「海蔵]の意味が「華厳経。竜樹が海中の竜宮より持ち帰ったという伝説による。」とあり、ともに「竜」が登場する。

13世紀の時間がさまざまな証拠を隠滅しているが、両者がつながっている可能性は、限りなく大きい。

稲佐に悟真寺(ごしんじ)という由緒あるお寺がある。

由来によると稲佐氏の住居の跡に寺を作ったとある。

最初はここが「海蔵庵」ではないかと思ったが、「稲佐山に上って」という言葉と「八大竜王神」により「稲佐山神社」が「海蔵庵」跡であろう。

第9章

稲佐のまわり 稲佐の辺りには「神」の付く地名が多い。

「神崎」「神の島」「立神」等がある。

「神崎神社」の後ろにある小山を天門峯(てんもんほう)という。

いかにも大陸の名前らしい命名である。

天門とは、字のとおり「天に通じる門」の事をいう。

「稲佐神」達は、稲佐神社を心のよりどころとして敬い、故郷へ一番近い島を「神の島」とし、その峰を天門峯と名付け、「百済」を思い偲んだのであろう。

立神は稲佐神社に住む「姫」や、「巫女」達を警護する武人達の建物があり、神(巫女)をまもる武(士)、いわゆる「武(たけ)神」から来たものである。

竹の久保、立岩は、海側ではなく陸地からの侵略を防ぐために川沿い(浦上川)に作られた、砦の名称の名残であり、「竹」も「立」も「武(たけ)」の意味をもつ名前である。

神功皇后後に「神功皇后」伝説がもっともらしく、いたるところについてあるが、「神功皇后」自体虚構の人物であるので後世の創作である。

稲佐近辺にこの「神功皇后」伝説が多いのは「稲佐神」浮穴沫媛の女神伝説がのこっていたため、意図的にすり替えが行われたのであろう。

(神功皇后)

その理由は、「稲佐人」大和側からいうと「土蜘蛛」であるが、かなり抵抗が大きく、大和側も大軍を投入し大規模な戦争が行われたと思われる。

「稲佐」氏の名前は南北朝の抗争までのこっているので、度重なる大和側の攻撃に耐え抜き、和解の道をとったと思われる。

それゆえ各地に浮穴沫媛の女神伝説が色濃く残っていたのではないか。

それが「神」の付く地名が現在も残っている証拠である。

教科書に載っているとおり長崎が開港以前は、寂れた寒村であるならば、こうも「神功皇后」伝説を長崎の港にちりばめる必要がない。

異国の王を神とする、勇猛な戦士一族は目立ったゆえに、徹底的にマークされたのだ。
万世一系を躍起になって主張する「大和」に、「稲佐神」を庇護する余裕などなかった。
時間と共に骨抜きにし、一族が絶えると、伝説さえもすり替え消し去った。
そして「稲佐」という名前だけがのこった。

イナサの語源調べも、一段落ついたところで違う本をよんでいたら、また「いなさ」という言葉にであった。

風のことであった。

kudara中国・四国以東で使われているらしい。

南東から吹く風。

特に、台風の時期の強風のことを示す言葉であった。

たつみかぜとも呼ぶらしい。辰巳(たつみ)というのは方角の名称である。南東ということになる。ここでも辰(竜)と巳(蛇)つまり、竜王がでてくる。

不思議なことだ。

イナサということばは、どういう切り口でしらべても、早き、強きの意味合いにどうしても、

たどり着いてしまう。

そして僕は確信した。

第10章

古代九州に1つの連合国ができ上がった。

大陸の国はその国を「倭」とよんだ。

連合国の名を「邪馬壱国」という。

そして大陸からも、さまざまな人々が九州に移り住んできた。

朝鮮大陸の「百済」から、ある部族集団が一人の姫をつれて、長崎の地に流れついた。

王族の内紛であろうか、それとも、国を追われてであろうか。

彼等は、矢を巧みにあやつる。

 吉野ヶ里遺跡

(吉野ヶ里遺跡の守りにつく兵士)

のちに「倭」の人々は、彼等を「イナサ」と呼んだ。

「早き矢を射る者」という意味であった。

言葉は広がり、嵐の風を「いなさ」と呼ぶ人々もいた。

姫は故郷の祖先を神として祭り、海岸に社をかまえた。

やがて時が過ぎ、故郷の国が滅んだとき、「イナサ」たちは「稲佐」となった。

一族は次第に広がり各地に散っていき、「倭」の人々に同化していった。

「倭」の国は、ばらばらになり、いつしか「大和」という国の人々が、「日本」という国を作り替えていった。

何百年か後「稲佐」の人々は、「日本」の国の争いの中で消え去っていった。

「早き矢を射る者」の血を引く故に、猛々しく戦い、敵の力のまえに倒れてしまったという。

今はだれも知らない話である。

著 竹村倉二

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする