彼は真面目な印刷職人である。
家が貧しかったので中学を卒業してすぐ町の印刷屋に就職する。
勉強は出来なかったが真面目な性格で、一生懸命働いた。
色んないじめにも遭ったが耐え、誠実な心を失わなかった。
30才になった時、同じ職場のパートの女性と結婚する。
陰ひなたのない可愛い女性だった。
数年後に一男一女を授かった。
会社は彼の努力で大きくなっていき、
それを喜んだ社長は彼を主任に昇進させた。
そのお祝いに、息子と娘、家族揃って食事に出かけることにする。
幸せの絶頂だった。
レストランに向かう夜の道。
彼の車は交通事故に遭う。
居眠り運転のダンプカーが正面から突っ込んできたのだ。
大事故だったが奇跡的に彼だけが助かった。
左足の大腿部骨折と肋骨の骨折だけですんだのだ。
しかし妻と子供二人は死亡した。
みんな頭蓋骨陥没で即死だった。
1ヶ月後、病院から退院する。
仕事にも復帰したのだが、仕事が終わると居酒屋で飲みつぶれる日々が続く。
悲しみが大きすぎて、想い出の残る家へしらふで帰ることが出来なかったのだ。
ある夜、何時ものように汚い立ち飲み屋の隅に立ち
コップをあおっていた。
目が据わった状態でコップを見つめている。
そして何も言わず、時折コップを口に運ぶ。
誰ともしゃべらず、無言で飲み続けている。
影のように隣に黒いスーツの男性がたった。
「こんばんは」
「・・・」
「私は怪しいものではありません。製薬会社の者です」
「薬屋が何のようだ」
ぶっきらぼうにつぶやく。
「私はあなたを何日も見ていました。あなたの悲しみが分るものです」
男のすわった目が黒いスーツの男の顔を睨む。
「悲しみが分る・・。大きなお世話だ。向こうに行ってくれ」
スーツの男は構わず続ける。
「この錠剤は悲しみを和らげる薬です。一粒飲めば気持ちが楽になりますよ」
そう言って、錠剤を1粒彼の前に置いた。
「あんたは何者なんだ。いきなり来て薬を飲めなんていう奴は怪しい。ほっといてくれ」
黒いスーツの男は上着の内ポケットから名刺を出した。
彼の名刺にはルシファー製薬、営業部長と書かれていた。
「怪しい者ではありません。あなたの奥さんに世話になった者です。怪しいと思われるのもしょうがありませんが、この薬は秘密の新薬です。けっして麻薬や毒物ではありません」
「妻の知り合いだと・・。聞いたことがない。益々怪しい。あっちへ行ってくれ」
「わかりました。薬は気がむいたら飲んで下さい」
そう言うと、黒いスーツの男は立ち去っていった。
そのあと、何杯か飲んでいる。
すっかり酔いが回っている。
「悲しみを和らげる薬だと。どうせ麻薬みたいなものだろう。まあいい。麻薬でも何でもいいから、この気持ちを抑えてくれるなら何でもいい」
そういって錠剤をつまみ上げ、口に入れた。
一分後彼の表情が変り始めた。
ぎらぎらとした絶望の光が目からなくなっていったのだ。
彼は大きなため息をついた。
「悲しんでばかりいたら、天国の妻や子供が心配するだろう。しょうがないことなのだ。私は妻と子供の分まで生きないといけない」
そう言うと、しっかりとした足取りで立ち飲み屋から出て行った。
「悪魔の兄貴、うまくいきましたね」
路地の隅で、小悪魔がスーツの男にささやいた。
「ところであの薬は何だったんですか」
黒いスーツの男は、煙草に火をつけながらつぶやいた。
「寿命を20年早める薬だ」
「あの男は、ほっといても悲しみを忘れていく。しかし忘れるまで20年かかるのだ。だからその20年分の寿命を1瞬で頂いたわけだ。悲しみは、時間がたたないと救われないのさ」
「なるほど」
「さー小悪魔よ。この方法で寿命をいただいてこい。街にはそんな悲しみを持っている奴が大勢いるからな。お前は成績が悪いから正式の悪魔になれないのだ。ただしこの薬は本人が自分の意思で飲まないと効果がないんだぞ」
「へい、分りました。それではこの薬と名刺はもらっていきます」
そういうと、小悪魔は闇の中に消えていった。
黒いスーツの悪魔は煙草を靴でもみ消しながらつぶやく。
「あいつの寿命は90才だ。20年もらっても70才まで生きる。若い時代を悲しみで暮らすより、寿命が短くなってもその時間を1瞬で費やしたほうがあいつの為になる。あいつは絶望的な悲しみの時間をあじあわなくてすむし、俺は寿命を頂ける。Win-Winの取引なのだ」
そして悪魔は闇の中に消えていった。
しかし、考え方によっては優しい悪魔なのかも知れない。