長崎県庁(1)
平成30年1月から長崎県庁が移転した。稲佐歩きに県庁のことを書くのは、実はとても近いからである。
実際、旭大橋を徒歩で渡ると10分ほどで県庁につくのだ。私にしてみれば県庁はご近所だし、徒歩で行ける範囲の場所でもある。
そんな意味で県庁の話題を書きたい。
県庁の歴史 長崎奉行逃げ出す
今から150年前の1868年の1月14日に明治新政府、天領を没収する旨の布告を発した。
その次の日、最後の長崎奉行河津伊豆守、奉行所を脱出し、外国船アリトン号で江戸へ引き揚げる。
この話で、長崎の雰囲気がうかがい知れる。長崎奉行は今で言う高級官僚だ。
政権交代により、突然明治政府が出来上がった。長崎奉行が明治政府の天領を没するという宣言を出したことを知り、あわてて逃げ出したのだ。
大政奉還は上層部だけで突然決まったことで、末端まで伝達されていなかった事の証である。
その後長崎は、江戸幕府ではなく各藩の合議制によって治安の維持に当たることを決定し、旧長崎奉行所の西役所を「長崎会議所」とした。
その後、長崎裁判所を「長崎府」と改称。
さらに、新政府が出来て2年後の1870年の2月3日、「長崎県庁」が出来た。
誰も知らない富岡県、伊万里県、三潴県
それまでは、長崎は天領であり、狭い地域で成り立っていたのだが、廃藩置県により長崎県となり、回りの地域の再構築が始まった。
その時期にいろんな県が出来上がり、そして統合されていった。
例えば天草県の前の富岡県、伊万里県、三潴県などその当時便宜的に作られた県名だが、今ではだれも知らないだろう。
1911年(明治44年)4月25日外浦町に旧長崎県庁が落成する。
さらに1953年、長崎の岬の最先端に長崎県庁舎が建てられた。
これが私達がよく知っている県庁だ。
2018年(平成30年)1月4日に新庁舎が完成し移転したという流れになる。
450億円かけた移転は正解か?
長崎県庁の移転に関しては、様々な議論が沸き起こった。
まずその移転費用の高額さ。そして商業地のど真ん中という立地。
県庁が長崎県で一番いい場所に陣取るということが、なんの意味があるのかという問いが未だに市民にあると言う事を忘れてはいけない。
さらに長崎県職員の為に、海の傍の一番いい場所で優雅な職員生活を送りたいだけに、この場所に来たのではないかと勘ぐってしまう。
まあ、一般市民が県庁に行くことはめったにない。
それなら、この場所は市役所にしたほうがよかったと本当に思っている。
もう一つ、災害時の事である。
県庁舎と県警本部庁舎は地震災害時に活動拠点とされているが、災害は地震だけではない。
津波による高潮もある。大雨による水害もある。何があるかわからないのが自然災害である。
そんな時見た目のかっこよさや、学者の言う危険度など何の役にも立たない事は、周知の事実である。
本当に大丈夫なのか。今はそれだけが心配である。