長崎の朝鮮人たちとキリスト教

長崎の町名や地名には、しっかりとした由来があるものが多い。

名前の歴史がいろんな事を物語っている。今回は高麗だ。

高麗橋

長崎には高麗橋という名の橋がある。

今は西山ダム河川公園という所に移築復元されているが、以前は長崎市内の伊勢町と八幡町(やはたまち)との間にかけられていた。

高麗橋 アートワークス撮影

日本で高麗という言葉がよく使われるのは高麗人参。あの元気になる漢方薬のことだ。

オタネニンジン(御種人蔘)ともチョウセンニンジン(朝鮮人蔘)とも呼ばれているが、野菜の人参とは別種である。

この名前でもわかるように、高麗とは朝鮮のことである。

現在はないが、昔は高麗町があった。

長崎の「吉宗」がある万屋町は、朝鮮人が多く住んでいたことから当初は高麗町と呼ばれた。

また、中島川の上流にある伊勢町は昔「新高麗町」と呼ばれていた。なので、長崎には1600年前後に高麗町と新高麗町があったわけである。

長崎にいる中国人はほとんど商売絡みで長崎の街に溶け込んでいたが、朝鮮人たちはどうだったのだろうか。

朝鮮人が長崎にいる理由

これは文禄、慶長の役(1592年から)の朝鮮出兵際、連れ帰った陶工達である。

豊臣秀吉の朝鮮出兵

現在、朝鮮と書けば慰安婦だの軍艦島の強制連行と目の色を変える人達がいる。私は朝鮮人も中国人も白人も黒人にも対して差別的な気持ちはまったくない。事実は事実である。それを避けて通れば偏見の塊になってしまう。

朝鮮と書いただけでもヘイト呼ばわりされるが、その当時朝鮮半島は、李氏朝鮮という国だった。李氏朝鮮の民だから朝鮮人で何の問題ではない。

この時代の李氏朝鮮の国情はあまり芳しくなく、朝鮮民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上ったと記録されている。

朝鮮の職人は賤民より上といった程度で、低い身分で貧しかったといわれている。その陶工職人の技に目をつけた豊臣軍は日本へ連れて帰った。もちろん強制的に連れて帰った人たちもいた事は間違いないだろう。

異国日本で優遇されたとしても、日本を恨む気持ちはあったと推測する。そんな思いが、自分たちの町を作り、大勢がキリスト教に入信した動機かもしれない。

しかし、江戸時代になって徳川幕府は朝鮮と国交回復を図るために、朝鮮から連れ帰った朝鮮人を朝鮮に帰そうと諸大名に命令する。

朝鮮側も取り返そうと刷還使を数度に渡り、日本に送り込みんだのだが帰国に応じた朝鮮人はほとんどいなかったというのが事実である。

そんな朝鮮人の町が長崎の高麗町というわけだ。

キリスト教と朝鮮人

文禄慶長の役で日本に捕虜として連れて来られた朝鮮人は2、3万人に上ると言われているが、九州を中心にかなりの数の者がキリスト教に改宗している。

長崎でも朝鮮人はキリスト教の信者となっており、1610年に彼らはサン・ロレンソ教会を建てている。

その教会がどこにあったのかは不明なのだが、伊勢町にサン・ロレンソ教会が建てられたとする文献が存在しているので間違いないだろう。

となれば伊勢町の高麗橋はその証拠でもある。

長崎ではキリスト教徒の神社仏閣の焼き討ち事件が多発している。「天火」と叫びながら神社や寺を焼いて回ったという。かなりきつい行動である。

島原半島の有馬の領内では捕虜となった朝鮮人が前年及び本年の2年間にわたって教理を聴き2000人がキリシタンになったという。そして1637年12月11日に島原の乱が起きた。

あくまでも私的な推理だが、長崎のキリシタンの暴動の影にもしかしたら朝鮮人信者の影があるのかもしれないと思った。

天草四郎

さて、2つの街を形成し、教会まで立て、橋まで存在した高麗人(朝鮮人)は、その後どうなったのだろうか。

ネットで調べても出てこないし、本にも載っていない。

どうも「朝鮮」の事になると、妙な沈黙がある。

困った事である。

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