三菱と長崎 「国あっての三菱」

台湾事件

1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した

乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。

漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致されたとある。

パイワン族-恒春 下蕃社の蕃人

この事がきっかけで、日本は台湾へ出兵するのだが、琉球の人達を日本管轄にするかとか、台湾は中国の管轄内なのかが不鮮明の時代である。

しかし、この事件がある程度の線引の役目を果たしている。

この事について述べたい。

琉球王国

琉球王国の行政の中心・首里城(世界遺産)

琉球王国は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した、総人口17万に満たない王国である。

琉球は中国大陸の清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入っている。

沖縄の人達のDNAを調べれば中国人や台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民と近く、同じ祖先を持つという研究結果も複数出ている。

また琉球の古語や方言に、中国文化の影響が見られない。また7世紀以前の日本語の面影が残っているため、中国文化流入以前に移住したと見ている。

いずれにしても、1879年までは琉球王国だったが、明らかに日本圏という認識があり、さらに12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったと、沖縄の正史にも書かれているくらいである。

源為朝

その琉球の人達が、台湾に漂流して助けを現地の人達に求めたのだが、言葉が全くわからず、捉えられ殺されてしまった。

12名の生存者は逃げて台湾府の保護により、福建省の福州経由で宮古島へ送り返された。

明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。

さらに1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こっている。

この台湾事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドルは、駐日アメリカ合衆国公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。

つまり、清国にいるアメリカ人から、日本国へ台湾を懲罰せよという提言が最初にあったのである。

1873年、特命全権大使として清に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した。

ここが台湾出兵の経緯である。

 

しかし日本国は台湾に兵を出すか出さないかで大揉めに揉めていた。

賛成派は大久保利通(政府側 西郷の親友 薩摩)であり、反対派は木戸孝允(きど たかよし 桂 小五郎 長州)である。

明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れたため躊躇したため、三菱が引き受けた

政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託したのだ。

この事が、三菱に好スタートを切らしたとも言える。

なにせ台湾へ兵隊を輸送するには大規模なチームが必要である。

本来は日本国郵便蒸気船会社が行くべきなのだが、岩崎弥太郎の運送会社に、日本の市場を取られるのを懸念して、なかなか動かなかったのだ。

その時に三菱商会(岩崎弥太郎)が「俺がやる」と政府に申し出、その任を果たしたのだ。

その後、政府は上海航路の開設を三菱商会に任せ、補助金も出している。戦争のために船を出すというのは、絶対安全ではないが、岩崎弥太郎は進んで政府に協力した。

これがただの政治商人ではない岩崎弥太郎の心意気だったのだ。

そして政府から日本国郵便蒸気船会社を任され、郵便汽船三菱会社へ改称した。その後、英国P&O社が日本に進出してきたが、政府と合同で保守したため、撤退させた経緯がある。

西南戦争

さらに明治10年(1877年)の西南戦争で、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送している。

この結果、三菱は莫大な利益を得て、その結果日本の汽船総数の73%を占めるほどに成長を遂げたのだった。

岩崎弥太郎も「国あっての三菱」と言っていたように、国策に従い、海運を独占し発展を続ける。

しかし世間からの風当たりもすごかった。

西郷隆盛の弟、西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論したという。

西郷従道

明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。

しかし、岩崎弥太郎は豪腕で乗り切り、明治14年(1881年)、借金漬けの後藤象二郎支援のため高島炭鉱を買い取り、長崎造船所も入手している

長い話になったが、ここで長崎が登場するのだ。

そして高島炭鉱、長崎造船所は長崎発展の原動力になる。

三菱重工業長崎造船所

明治18年(1885年)弥太郎は満50歳で病死している。

それをきっかけに、大物たちが反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗している。

しかし後を継いだ弟の弥之助も馬鹿ではない。反三菱の連中と互角に戦い、結局政府の後援で共同運輸会社と合併して日本郵船が設立されたのだ。

そして日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

出典、引用 ウィキペディア

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