深堀人は土蜘蛛族

2018年12月19日

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深堀

長崎に深堀という場所がある。

深堀地区の人口は6,676人(2018年2月末日現在)である。海岸部は古くから造船業が盛んである。また、全体的に住宅地が多い。場所的には長崎港の南端部にあたり、工場が多い地域と認識している。ウィキペディア

この深堀という場所は一時期通っていたことがある。深堀に用があったわけではなく香焼小学校へ行くために深掘を通ったのだ。

だいぶ前、深堀小学校の卒業アルバムを作っていた時期が七年ほどあったのだ。だから新入生の時期や運動会、修学旅行と事があるたびに通っていた。

しかし現在の私にとって一番興味があるのは「深堀貝塚遺跡資料館」である。

深堀貝塚遺跡資料館

遺跡は、長崎港口の北面する砂丘とその後背湿地に位置する。昭和39年(1964)から現在まで数多くの調査が実施されている。遺跡はA~F地点に分かれ、後背湿地であるE地点を除くと弥生時代以後の墓地として利用されている。

縄文前期の曽畑式土器を中心としたE地点からは、中期になると瀬戸内系の土器も多く出土し、遠隔地との交流の痕跡を示している。

弥生時代の遺構としては箱式石棺と甕棺があり、保存状態の良い人骨が26体出土している。

人骨の身長は低く、大陸からの渡来要素を持つ北部九州人骨と比べてはるかに小さい。これは本遺跡の人骨が縄文時代の伝統をそのまま引き継いだ、西北九州型弥生人に属している。

深堀貝塚遺跡資料館

これが説明である。

何がすごいのかというと、遺跡からは、縄文時代前期から、弥生、古墳、古代、中世、近世に至る遺物等を出土したということである。

同じ地域に何千年もの間、人が住み続いているというのがすごい。

ということは、この場所は何千年もの間、破滅的な地震や地盤沈下がなかったのだ。

うーん。それが何?って言われそうだが、やっぱりすごいと思う。

 

あと、深堀貝塚遺跡資料館の入り口に箱式石棺が展示されている。

深堀貝塚遺跡資料館の石棺

それ以外にも甕棺があるという。

縄文時代のお墓は土坑墓(どこうぼ)といい、基本的に土をほって埋めるだけである。

この土坑墓から発見された縄文人の遺体は、貝で作ったブレスレッドを沢山つけていた。

もしかしたら、重要人物だったかもしれない。

そして何世紀か後の弥生時代になると、同じ地域に弥生のお墓、箱式石棺と甕棺があるのだ。

深堀貝塚遺跡資料館の甕棺

甕棺は子供用の大きさしかなく壺棺もある。

甕棺と言えば吉野ヶ里がすぐ思い起こせるが、じつは弥生時代ではなく縄文後期・晩期の遺跡でよく見られるものである。

北部九州の中でも福岡平野周辺一帯は、弥生早期から前期前半までは成人が主に木棺に埋葬されていたが、前期後半になると壺棺に代わった。(略)中期後半には長崎県や熊本平野まで拡がった。ウィキペディア

なるほど、福岡の風習が長崎まで伝わってきたということになる。

景行天皇伝説

景行天皇とは、記紀における伝説上の人物で、長崎も見て回ったという話が肥前風土記という本に書かれている。

年代は伝説上の人物なのでなんの確証もないが、記紀の記述を参考にして単純に逆算すると西暦71年に生まれた事になる。

この時代はまだ邪馬台国もなく弥生時代である。時代が早すぎると思うが伝説なのでしょうがない。

即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(ヤマトタケル)を遣わして川上梟帥を討たせた。ウィキペディア

この絵は江戸時代の酒呑童子・土蜘蛛退治の絵で、土蜘蛛という名前からこんな化物になってしまった

その景行天皇は、長崎にいた土蜘蛛を成敗したとある。

長崎県彼杵地域の浮穴沫媛という土蜘蛛がいたが、天皇の命に従わず大変無礼だったためすぐに誅したとある。

じつはこの浮穴沫媛がいた浮穴郷がどこだったか未だに謎なのである。

九州は昔から大和政権寄りではなかったので天皇の行幸の際、征伐したという話がいたる所にある。とすれば深堀貝塚遺跡に眠っていた縄文人、弥生人は土蜘蛛族ということになる。

実に面白い。

また深堀貝塚遺跡の縄文人や弥生人は各地域と交流があった証拠である。

弥生人はいなかった

ここで面白いのは人骨である。

埋葬されていた人骨の特徴から、渡来系ではなく、縄文時代の伝統をそのまま引き継いだ人々と推定とある。

世間の学説では、弥生時代渡来人がやって来て稲作を始めたと、未だに教科書に載っているが、現在では稲作は縄文時代から行っていて、体の大きな弥生人が日本中にやって来て、日本を作ったと書いている。

しかしこの遺跡を見れば、ずーっと縄文人の体型のままである。

そして弥生時代になると、その時代の流行りである箱式石棺と甕棺の様式で埋葬しているのだ。

えー?!

日本の定説では、弥生時代に大量の大陸系の異国民がやってきて弥生時代を作ったと言っている。しかし長崎の深掘には、そんな異国民の骨はなく、ずーっと同じ人々が住んでいたという事になる。

つまり、長崎には移民はなかったのだ。さらに移民の文化と言われた箱式石棺と甕棺はこの地にある。

日本の学説によれば、弥生人の文化様式だけが伝わったというのだろうが、本当にそうだろうか。

弥生人の代表格、大和朝廷の天皇が、九州の土蜘蛛たちを退治したとある。とすれば、深堀遺跡に住んでいた人は移民系の弥生人ではないという事になる。

つまり、長崎人の原型は縄文人の血脈なのである。

これは、今までの学説を覆す大発見(?)である。

教科書を書いている奴ら、それを教えている奴ら。よーく見学するように。

学者よ。ボーッとして生きてんじゃねえ・・・

という事で大発見の遺跡なのである。

さらに有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)が縄文時代にあるが福井県と岐阜県で発掘されている。

有孔鍔付土器 | 玉川大学教育博物館

この土器が深堀貝塚で出土している。

福井県と岐阜県から持ってきたものではなく、作られた土は九州西部のものとされているので、技術が長崎の深掘に伝わったとされている。

こんな事実を知れば、縄文時代、日本中と交流があったと推測される。

素晴らしいと思う。

深堀が長崎の中心

長崎にも縄文や弥生時代の遺跡はかなりある。

出津遺跡(しついせき)縄文時代・弥生時代
柿泊遺跡(かきどまりいせき) 旧石器時代・縄文時代
脇岬遺跡(わきみさきいせき) 縄文時代~中世

もちろんこれ以外にも遺跡はあるがすべて海岸沿いである。

これらの地域をつなぐと、船での交流圏が見えてくる。長崎の古代はなかなかニュースにならないが、実際には一つの長崎文化圏(曽畑式土器文化圏)があったのは確実である。

深堀貝塚遺跡資料館

 

深堀は遺跡以外にも、武家屋敷がある。

武家屋敷跡

ここに、関東上総之国(千葉県あたり)から深堀氏がやって来て所領にしている。

江戸時代は佐賀鍋島深堀支藩で戸町との刃傷沙汰もあり歴史的に面白い地域である。

まあ、現在の武家屋敷跡も深堀貝塚遺跡資料館もかなりしょぼいのだけど、内容は一級品である。

長崎市も、余計な箱物ばかり建てないで、こんな場所に力を入れて欲しいものである。

深堀神社