木鉢神社

長崎港の女神大橋の根本に木鉢という町がある。その町の、山の方に木鉢神社がある。

祭神が事代主大神となっている神社である。

長崎万屋町に事代主神社(海上安全、大漁)と称し、往吉より鎮座しありしを、大正14年(1925年)9月21日官許を得て、現在地に移転、同日木鉢神社と改称されると由来が掲載されていた。

事代主

事代主(ことしろぬし)は、出雲の大国主神の子とされている。

葦原中国平定において、建御雷神らが大国主神に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主神が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主神は「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。ウィキペディア

この話に出てくる事代主(ことしろぬし)は、出雲の国の実質的な王である。

古事記では事代主を言代主神とも書いていて、神託を告げる神だともされている。

ところが解説では海上安全、大漁の神としている。

その理由は、およそ中世のころからか、この神は恵比須様とされるようになって今日に至っている。

このあたりが日本の神様の面白いところで、事代主の父親である大国主命が大黒様と混同されたので、その子供だから事代主は恵比寿様になったというわけである。

大黒天像

また、高天原の使いが出雲にやってきた時、事代主は釣りをしていたから漁業の神様だとも言われている。

これらの話は主に江戸時代になってからであり、七福神信仰で定着している。

なんとも、あやふやな成り立ちだが、信仰というのはそんなものかなと思う。

万屋町から木鉢に移転した理由は不明だが、万屋町は賑やかな町なので、区画整理かなんかで追い出された可能性も否定できない。

木鉢

木鉢という名称の由来は不明である。

むかしこの港は木鉢浦と呼ばれていたという。想像すれば女神大橋の女神側の戸町は、昔、戸八浦と呼ばれていたので、それと呼応しているのかもしれない。

木鉢浦は、奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。

寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年(1801)にインドネシア東部のアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。

なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていたとある。

木鉢には特別な伝説はないが、長崎港の入り口の予備の港と言ったところでやや重要だったのだろう。

木鉢神社

木鉢神社は山の中腹に祀られており、参道もしっかりあり、石碑もあるのだがなんと書かれているか不明だ。

木鉢神社

参道の途中には石塔もあり、お神輿の格納庫もある。

本殿は岩に囲まれた場所にあり、それなりの雰囲気がある。

木鉢神社

木鉢神社

木鉢神社

左手の岩には、何かを祀った穴が開けられているが、現在は何も祀られていない。

神社には奥社もあり、大岩が御神体のようである。

木鉢神社

拝殿もとりあえず様式は残っており、朽ち果てた神社でないことは分かる。

木鉢神社

蔓柏紋

拝殿の上に掲げられているのは蔓柏(つるかしわ)紋である。

古くは柏の葉に食べ物を盛って食器代わりとしていた。それを神に捧げていたことから、柏が「神聖な木」とみなされるようになった。柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったともいわれ、現在も神職に多く見られる家紋。

それ以外にも七福神の一柱でもある恵比寿様の神紋としても有名だ。

となれば御神体は恵比寿さまである。

木鉢神社

一の鳥居には木鉢郷と書かれているので、地域の鎮守として存在し続けていたのだろう。

ところどころ補修の跡もあり、これからもあり続けて欲しい神社である。

木鉢神社