山王神社
長崎市坂本にある神社で、一本柱鳥居と被爆した楠が有名である。
被爆した事が盛んに取り上げられているが、肝心の神社の由来を調べてみた。
この場所にある理由がいい加減
この神社の由来だが
1638年(寛永15年)、島原の乱の鎮圧のため長崎に赴いた松平信綱が、浦上街道(長崎街道の脇道)沿いの地を通りがかった際、その景色が近江の比叡山に似ており、地名も比叡山の鎮守である山王権現(現日吉大社)の鎮座地坂本(現滋賀県大津市坂本)と共通することから山王権現の勧請を思い立ち、長崎代官の末次平蔵と計って「山王神社」として創祀されたと伝わる。ウィキペディア
簡単に書けば、江戸の高級官僚が、長崎の坂本という地名から、滋賀県大津市坂本にある山王権現を連想し、建てたという事である。
だから、長崎の山王神社が此処にある信仰的な理由はまったくないのである。
こんな事実を知るとなんか残念な気持ちになる。
まあこの場所が浦上街道という交通量の多い場所で、なおかつ長崎がキリシタンの町だったこともあり、目立つ場所に神社を建てたがっていた市政側の事情があるからだ。
さらに、浦上村のキリシタンへ改宗を促す宗教対策の一環として、1868年に長崎裁判所総督の発案で山里小学校の地に伊勢神宮を勧請して「皇大神宮」として創祀されたのだが、氏子とされたキリシタン達も棄教や改宗を拒否して関与しなかったために衰退を余儀なくされ、「皇大神宮」という名でこの山王神社に合祀したという。
確かに拝殿には、山王神社という額と、皇大神宮の額があった。
長崎の地は、キリシタンという特別なものがあったので、こんな由来の神社が、人の多い街道などの場所にある神社には多い。
神社ファンとしてみればやや残念である。
しかし考えてみれば、被爆とキリシタン禁教という、長崎特有の観光資源をもっている神社と思えば、それなりに素晴らしいと思う。