坂本町の稚桜神社
長崎大学医学部の正門の横に祀られている神社がある。
神社というより祠だと思うが、ここを稚桜(わかざくら)神社というのを初めて知った。
由来は
稚桜神社は弘化元年(1844)浦上山里村の庄屋・高谷家の分家の庭であった現在の場所に、庄屋・高谷重吉が建てた神社である。当時の祠は1945年8月9日に原爆にあい崩壊、その後、高谷重治氏によって再整備された。(長崎んことばかたらんばより引用)
とある。
稚桜(わかざくら)という名称を調べてみると、奈良県桜井市に同じ名前の稚桜神社があった。
その名前の由来は、膳余磯(かしわで の あれし 5世紀前半の豪族)が天皇に酒を献じたとき、桜の花が舞い落ちてきた事による。奈良県の稚桜神社は由来もあり、こちらが大元だと思う。
神功皇后伝説と鎮懐石
長崎の稚桜神社は庄屋、高谷重吉が建てた神社だとあるが、この神社には鎮懐石があり、もともとこの場所に神功皇后伝説があったのではないかと推測できる。
この鎮懐石の話には別の話もある。
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会には、浦上の本原石神というところに赤色の美しい燧石(ヒウチイシ)が産出されていたところからこの石が鎮懐石ではないかと考えられていました。(広助の『丸山歴史散歩』より)
この話は
長崎市石神町(いしがみまち)に「石神信仰」があり、石神町を含む浦上川東部には、石神信仰の一つで、神功(じんぐう)皇后にまつわる「鎮懐石(ちんかいせき)」伝説が残る。毎日新聞2017年3月7日
という話につながっている。
たぶん、江戸時代はこの場所が高台で海が近くまで来ていたので、見晴らしがよく神功皇后の朝鮮出兵と関連付けられたのかもしれない。
もともと鎮懐石という伝説が何を示唆しているのか不明なのだ。謎だけが残っている。
もう一つ庄屋、高谷重吉がなぜ稚桜神社を作ったかという事も謎と言える。歴史的な意味が不明なのだ。
もしかしたら、この地に桜の木が多かったのかもしれない。単純に古代天皇と桜の組み合わせで、稚桜神社という名称を選んだのかもしれないなと推測する。
鳥居もなく、何かの記念碑かと思う人も多いだろう。
原爆の記念碑もあるので原爆の被害を示すモニュメント的な意味合いもあると思うのだが、やはり神社である。
いろんな神社があるもんだと改めて思った。