烽火山登り口の戸隠権現

戸隠権現への道

妙相禅寺の裏手の山道と石段を上がると、左手にある。
 
石段の途中には地蔵尊の祠があり、この道には宗教のにおいがある。
 

戸隠権現への道

戸隠権現への道

戸隠権現

戸隠権現

戸隠権現

石ではなく鉄製の鳥居が3つあり、体裁は何とか保てているが、拝殿は朽ち果てる寸前であり、残念である。
 

戸隠権現

戸隠権現

この道を山に登っていくと、烽火山に通じている。
 
烽火山という名前は、江戸時代、ここで火を焚いて異国船の見張りと通報に使われた事から来ている。烽火釜は円形で直径約5m、深さ約2mの内側には石積み、側面からの通気口も作られている。
 
烽火山の頂上から、鳴滝に降りる道があるが、そこには日蓮宗の七面山妙光寺がある。
 
本河内側の寺は妙相禅寺という。妙光寺と妙相寺、名前がよく似ている。
 
この妙の字、妙見菩薩(北斗七星信仰)から来ているようで、山岳宗教、つまり修験道が盛んだったと推測できる。
 
日蓮宗と禅宗ではいろいろ違うが、修行というところでは一緒だと思われる。
 
神社名は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺の戸隠神社(とがくしじんじゃ)から来ている。
 
この長野県の戸隠神社の話は、かなり古い。一説には現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210年)とも言われるが、九頭龍社の創建はこの奥社よりもさらに古いとされている。
 
紀元前といえば、日本で弥生と呼ばれる、稲作文化がスタートしたころの話である。もちろん、それだけ古いという言い伝えである。
 
まず、戸隠山の名称は、天照大神がこもっていた天の岩戸を天手力雄命が力まかせに投げ飛ばしたとき、その一部が飛んできて山になったという伝説から生じている。
 
平安時代以降に、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。
 
長崎のこの場所に、いつ頃持ってきたかというと、寛政年間(1789~1801)に、秋葉大権現をこの地に移してからという文があるので、江戸時代末期であろう。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1502/index.html
 
秋葉大権現というのは、秋葉山(静岡)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、火防の霊験で広く知られている。
 
ここの戸隠権現の上のほうに、秋葉大権現の鳥居があるので、もともとあった、修験道信仰に、付け足されるように、持ってきたのだろう。
 
この場所の雰囲気は、岩屋山の雰囲気とよく似ている。なのでこの地の山岳信仰は、岩屋山が始まった時代と被ってくるだろう。
 
時代も古く、由緒もあると思うのだが、今はボロボロの状態で、残念である。
 
ただ、長崎の山々に、修験道の山伏が闊歩していた事はよくわかる。古代長崎の大きな側面だったのだ。
 

戸隠権現

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