長崎の要塞岬 誕生
長崎はイエズス会によって小ローマになったという記述がある。
実際どういう風に見えたのだろうか。
大村純友と有馬氏
スペイン側に加担し、キリスト教を保護する形で、密接な関係を築いていた、大村純友だったが、彼一人の采配で、長崎港の岬にキリスト教の町ができたわけではなかった。
そこには、大村純忠の領土に対して、文句が言える島原の有馬氏の存在があった。
なので、長崎の岬に、最初に町を作ったのが島原町で、その後、大村町と他の町が作られた。
そして、大村純忠は大村町に、有馬義貞は島原町にそれぞれ、約100人の兵士を派遣したとある。
合計200人の兵士である。
これは、どう見ても、砦や要塞に近い。
イエズス会宣教師のフィゲイレド(ポルトガル)は、町ができた岬の突端に「岬の教会(サン・パウロ教会)」を建てたとある。
長崎市が所蔵する屏風に、南蛮寺として描かれている。
この絵の描写が正しいか不明だが、屋上には見晴らしが利く、物見やぐらのような構造をしている。
どうも、祈りをささげる場所じゃない雰囲気があり、まさに岬の見張り台ではなかったのだろうか。
武装する宣教師たちについての、私説がある。
武装する吉利支丹伴天連 in 長崎
https://artworks-inter.net/ebook/?p=4549日本の布教長のための規則これは巡察師ヴァリニャーノが定めた方針である。後に「適応主義」と呼ばれるが、基本的には日本人を尊重した考えであった。そして布教のために確保した長崎を、キリスト教国にするための方針でもある。その文章には、長崎を要塞化することを指示している。■キリスト教会と宣教師たちを守るために、長崎を十分堅固にし弾薬武器大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に大切。■茂木の要塞も、同地キリスト教徒の主勢力のいる大村と高来の間の通路なので安全を確保する事が大切。■長崎に城壁を有したなら、ポルトガル人をその中に配置する。等■長崎に多数のポルトガル人兵士を遣く。■長崎のキリスト教徒入口を増加させ住民に必要な武器を与える。
つまり、宣教師たちは、長崎を武装し要塞化することが目的だったのだ。
旧県庁舎のあった長崎市江戸町から官庁街の広がる万才町一帯では、断続的に石垣が現れる。市長崎学研究所の赤瀬浩所長は、それらが一連のつながりを持って周囲を取り囲んでいると指摘。16世紀後半、ポルトガル人が築いた城塞(じょうさい)と関係があるのではないかと考えている。
小ローマの本当の意味
長崎は小ローマのように見えたとある記述だが、こういう事実が見えてくると、単なる教会群が立ち並ぶ風景ではないようだ。
長崎の岬は、石垣で頑丈に補強され、海から見れば、まさに要塞都市のようだったのだろう。
要塞教会というのがある。トランシルヴァニアの要塞教会の村落が有名だとされている。
なぜ、それほど岬を強固にし、大村町、島原町合わせて200名の兵士たちが必要なのだろうか。
この時代は秀吉の時代で、禁教を公布しているが、それほど強硬な措置ではなかった。
秀吉の考えは、人間だから何を信じてもいいけど、悪事を働かず、日本の宗教を圧迫する布教をしなかったら、大目に見るという態度だった。
大村純忠とキリシタンの敵
なぜ長崎にたどり着いたのかを考えればわかる。
永禄4年(1561年)宮ノ前事件の勃発で平戸貿易を断念したイエズス会は代わりとなる港を探して横瀬浦にたどり着く。これに時の大村領主大村純忠が手を差し伸べ貿易港として繁栄する。
ここで大村純忠が登場する。
しかし大村純忠をつけ狙うものがいた。
純忠の養子縁組で大村氏を継げなかった恨みを持つ武雄の後藤貴明である。
彼らにより、夜襲を受けて横瀬浦は焼き払われた。
次は長崎市の福田である。
福田は、次なる南蛮貿易の繁栄地となり、福田城下には1000人を超えるキリシタンが居たとされる。
ここで、平戸の松浦 隆信(まつら たかのぶ)が登場する。
松浦 隆信は平戸の南蛮貿易でだいぶ儲かり、鉄砲や大砲などの武器を率先して購入していた。
しかしポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。
横瀬浦でも焼討があったため、永禄7年(1564年)に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、教会も再建したのだが、結局、大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまったのだ。
妬んだ松浦隆信は同年、福田港に攻撃を加えるが、忠兼はこれを撃退した。そして福田港は大いに栄えたのだが、この福田港は外海に面している。
これは攻撃されやすく、悪天候の時の避難港としてもやや弱かった。
そこで長崎にやってきたのだ。
長崎での敵 深堀、諫早(西郷)、竜造寺、そして島津
しかし、長崎にも敵がいた。深堀と諫早である。
1574年~1575年、深堀と諫早の軍勢は、時折船に乗って満潮時の上流を利用し、できる限り長崎の集落に近づいてから鉄砲を発射し弓を射たという。
フロイス『日本史』には、深堀氏の軍勢による鶴城・長崎港襲撃についての記述がある。
ミゲル=ヴァスの1575年8月三日の手紙によれば、その定期的な攻撃は、1574年の四旬節から1575年の復活祭頃までのことだった。
この時期、長崎港の住民は堀(「一ノ堀」)で六丁町と内陸の土地とに分割されており、六町をとりまく柵の構築によって六丁町全体が要塞となっていた(七四)。
フロイスによれば、敵の攻撃で破壊されたのは、漁師の村を含む長崎港「周辺の場所」とある。
様々な敵たち
長崎の岬が要塞となった理由は、敵の存在がある。
深堀と諫早の軍勢もそうだが、佐賀の竜造寺の存在もある。
竜造寺は貿易の権利を狙っている。
その脅威を除くため、薩摩の島津に協力を求める。島津は竜造寺を打ち取るのだが、今度はその島津が、長崎に食指を動かしたのだった。
純粋にキリスト教の布教が目的で、日本にやってきた宣教師もいたが、やはりヨーロッパ勢は、日本の征服に目的があった。
インドやフィリピン、ペルーなどの征服実績があったのだが、日本はかなり違っていた国だった。
なにせ、世界最強のモンゴルを追い返した、武士の国である。
他の国のように、恫喝だけでは1ミリも動かなかったのだ。
そして、キリスト教と南蛮貿易は、そんな武士たちの中で、利権の宝箱だったのだ。
これが長崎の岬が、要塞となった理由である。