神の島の古名は「池の岬」 池之神社と水神様
祭神は神功皇后(息長帯姫大神おきながたらしひめのみこと)である。しかしこの祭神は、後年の神功皇后伝説によって、祀られていると思う。
本当は誰を祀っていたのだろうか。
由来書が拝殿にプリントされて張り出されていた。
神の島はネズミ島の西にあり、元は池のみさきと名づく。池あり、水湛えて碧(みどり)をなせり。のちに枯れて井となり、その井尚存する。
とある。
神の島の前の名前は「池の岬」だったのである。神社の敷地の中にも井戸があり、神社の周りには水神様が祀られているのがその証拠である。
この神社が建てられたのが、天保13年7月(1842年)である。その後、何度か建て替えられ、昭和59年に火災により全焼、再建され現在に至っているという。
いつから、池の岬から神の島になったのかは不明だが推理はできる。
昔は池があったのだが、枯れてしまったとある。池があったころは、水神様が祀られていたのだろう。
そしてその水が枯れてしまった。それまでは「水神の島」だったのが、水がなくなったので、水神の水が取れて、「神の島」となったと推測する。
神功皇后伝説があるのだが、回りに由来となるものもなく、その歴史もないので、長崎に神功皇后伝説がつけられた時に、神の島も、その名前から神功皇后伝説グループに入れられたのではないだろうか。
おそらく、明治に入って、日本が神道を前面に打ち出した時ではないかと想像するのだが、確証はない。
神の島前の四郎ヶ島の要塞化
池之神社が建てられた時代は、江戸幕府が異国船打払令を廃止、薪水給与令が復活している。
現在の神の島には、防空壕の跡があり、長崎港の入り口として軍事の場所だという事はわかる。
有名なのは四郎ヶ島の砲台跡で、これは長崎の守備の為、佐賀藩が作ったものである。
こんなに佐賀藩が力を入れたのにはわけがある。
1808年、フェートン号事件というのが、長崎で勃発する。
これは、イギリスの軍艦が長崎港に勝手に入り、オランダ人を追い回した事件だ。
結局、長崎には何の被害がなかったのだが、長崎を守っていた長崎奉行は面目丸つぶれで切腹したほどである。また長崎を守っていた鍋島藩も同じだった。
それで、面目躍如として、ガンガン工事をやったのだ。
ここ数十年で、神の島はきれいになっている。
マリア観音と呼ばれる岩場には、鳥居も立てられ、漂流神である恵比寿様も祀られているし、島の周りの道も拡張されている。
だが、今も昔も絶好の釣り場には間違いなく、釣り人たちでにぎわっている。
小さいがいい場所だと思う。