日本という国が、中国に大きく影響されたことは間違いないが、ひとくくりに中国と書くと、誤った見方をしてしまう。
 
長崎に貿易で、アジア大陸から来ている人たちは、別に国を代表しているわけでもないし、日本の商人たちも、日本を代表しているわけではないからだ。
 
長崎でも、民間ベースでは、どんどん交流があったのだと思うが、何せ記録がないので書くこともない。想像するだけである。

征服王朝の元

征服王朝の元の王朝期間は1271年から1368年である。日本では鎌倉時代から室町幕府の前期である。
 
ご存じのように、鎌倉幕府は武家社会の確立された、最強の時代である。
 
そんな時期に、元寇(モンゴル軍)がやって来たことも、ある意味日本の幸運だったような気がする。
 

元寇

 
もっと早かったら、日本は占領されていただろうと思う。平家も強力だったのだが、後半は貴族社会にあこがれて、武骨さがなくなってしまっていたからである。
 
モンゴル軍に好き勝手にされていた中国に、漢民族が反逆ののろしを上げる。
 
紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国、元と戦う。
 

明の始祖

そして、華中一帯を制圧、1368年南京で帝位につき (太祖) 、国号を明と定め、さらに元朝を漠北に追放して中国の統一を完成した。漢民族の復興王朝である。
 

漢民族の明

ただ、新しくできた明には大きな課題があった。
 
中国沿岸に出没する倭寇被害の問題、内乱で停滞した海外貿易の復興、そして破綻した朝貢体制の確立である。
 
朝貢体制の確立とは、元に代わって今は明が中華の中心であるという事を周りに知らしめて、国を安定させたかったのである。
 
この結果、洪武帝は海禁政策という鎖国を行った。
 
さてそのころの日本は武家政権で、武力は強大だったので、明のいう事をあまり問題視していなかったようである。
 
明政府は倭寇の取り締まりを強く日本に要求するのだが、倭寇自体が変化をしていて、前期倭寇(14世紀前後)は、元寇の恨みを果たしたい、瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人が主であった。
 
だが、後期倭寇(16世紀)は、明の海禁政策による懲罰を避けるためマラッカ、シャム、パタニなどに移住した中国人(浙江省、福建省出身者)が多数派で、日本の幕府は関係なかったからである。
 
しかし、この海賊たちも、明の海禁政策の強化と、かなり後になって豊臣秀吉の海賊停止令で姿を消したのである。
 
結局、傲慢な明政府は日本との国交を断絶してしまう。
 
日本人は冊封という親分子分の関係が嫌いなのだ。この点は、朝鮮半島や東南アジアの国とは違い、これまで一貫していた。
 
しかし、室町幕府3代将軍の足利義満は、日本国内の支配権確立のため豊富な資金力を必要としていたので名分を捨て実利を取り、明との勘合貿易を始める。
 

足利義満

室町幕府は貿易をやめたり、再開をしたりしている。なぜなら、明との貿易は対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だったからである。
 
つまり、すごく儲かる貿易で、体面と経済的利益を天秤にかけながらの、明と付き合っていたのだ。
 
その後、日本では室町幕府が衰退し、南北朝時代をへて戦国時代に突入し、信長、秀吉が登場した時代である。
 
さて明の時代の長崎だが、大きな変化が起きている。
 
特筆すべきはキリスト教の伝来で、長崎はキリスト教の町になった。
 
そして南蛮貿易(なんばんぼうえき)が盛んになっている。
 

南蛮貿易

南蛮貿易とは日本の商人、南蛮人(ポルトガル人とスペイン人)、明時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。
 
少し前に戻るが、五島列島は倭寇の本拠地とされていたという事も、書いておきたい。
 
色々問題も多いのだが、日本の武士団軍事力の力が大きく、南蛮人と言えども、そう簡単に日本と戦おうなどとは思っていなかった。
 
1644年に滅亡した明も、例外ではなかった。逆に秀吉は朝鮮半島経由で、明朝に圧力を加えていたくらいである。
 
秀吉の朝鮮出兵だが、いろんな説がある。私はフィリピンを支配していたスペインがアジアに進出してくるのを阻むために、スペインに対し日本の軍事力を見せつけ牽制しつつ、朝鮮を征服する事で緩衝地帯を確保しスペインに備える事が目的であったという説に賛成である。
 
その証拠に、日本の軍事力が衰えた際に、ヨーロッパ勢が、アジアを完全に植民地化しているからである。
 
日本の武士軍事力が、当時の外部勢力の日本侵略を食い止めていたことは事実である。