長崎県 長崎市 福田本町1246
 

福田天満宮

 
福田小学校の上の国道202を小江原方面に行く、坂の途中に一宮がある。
 

長崎方面

福田天満宮 一宮

福田天満宮 二宮

この近くには「ザ ヴィラス長崎」という、婚礼中心のレストランが、長崎サンセットマリーナに隣接している。昔、この「ザ ヴィラス長崎」で婚礼を撮影した際、神前結婚式で、この福田天満宮に行ったことがある。
 
これでもわかるように、福田地区の氏神として、地域に慕われている。社殿も奇麗だし、細部にわたって整備されている神社である。
 
 
福田天満宮は、寛永12年(1635年)に再興されている。宮司に話を聞けば、昔はもっと海岸近くにあったという。
 

福田氏

稲佐山から見た福田地区

福田地域の領主は、福田氏である。
 
福田氏は平安時代末期の治承4年(1180年)、後白河法皇家臣の平兼盛(平包守)が九州の肥前国老手・手隈の定使職に任ぜられて下向した。
 
その子の平包貞(兼貞)が福田荘の地頭に任命されるも、文治5年(1189年)、平包貞には子が無く、家督は弟の平包信(兼信)が継いだ。
 
平兼信は土着して、その地を福田と名付け、自身も福田を名字としたのが、九州平姓福田氏の始まりである。ウィキペディア
 
つまり最初の殿様は、福田兼信である。
 
平安というから、かなり昔から、この地にいる事になる。長崎に平家の落人伝説があるのも当然なのだ。
 
福田氏は繁栄をつづけ、戦国時代には福田荘に残った嫡流の一族が勢力を伸ばし、福田兼次、福田忠兼、福田兼親と続き、領主としての地位を確保している。
 
この近くに、城跡もあり、長崎の武士団としては歴史も由緒もある一族である。
 

福田城跡

元寇にも現地の在地勢力として福田兼重・兼光親子が参加しているし、南北朝の騒乱にも参加している。
 
永禄8年(1565年)には、佐世保の横瀬浦を襲撃されたポルトガルの一団が、福田浦を港としている。
 
これにより、福田は大いに栄えたが、南蛮貿易を横取りされたと嫉妬する松浦氏の襲撃を受けるが、忠兼はこれを、みごと撃退している。
 
なかなかのものである。
 
天正元年(1573年)に福田城を築城。天正14年(1586年)に、福田忠兼は息子の福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配下に入っている。
 
こんな土地柄にある、天満神社である。
 
境内には、草住の碑という碑がある。これは、若い修行僧の死に際し、両親が供養のために、小江に行く道に石碑を建てたが、道路拡張の為所在が不明になるとの事で、現宮司がこの神社に移したとされるものだ。
 

草住の碑

この周りに、水神の石碑もたくさんある。
 

福田天満宮 水神

 
推測だが、昔は海の近くで水神様を祀っていたのが始まりではないかと思う。
 
1565年にキリストの地となったという事で、この辺りの神社仏閣は壊されたのではないかと思う。
 
そののち、キリスト教が禁教となり、長崎から追放されたのち、1635年に建て替えられたと推測する。
 
天満宮なので、祭神は当然菅原道真公である。長崎にはあまり関係がないので、福田家の中に、福岡由来の人間がいて、この地に勧進したのではないだろうか。
 

福田天満宮

福田天満宮 境内

福田天満宮

福田天満宮