京都の風情を色濃く残す 長崎の八坂神社


長崎県長崎市鍛冶屋町8-53
昔の電停名「正覚寺下」、2018年に名前が変わって「崇福寺」電停から、裏通りに入る。
 

八坂神社

大きい鳥居があり、石畳の踊り場の先に長い石段がある。
 
神社のつくりはしっかりしているが、屋根が瓦ぶきで、檜皮や銅板を見慣れているので、どこかお寺の雰囲気がある。
 

八坂神社

 
由来
長崎市今篭町に樹齢数百年を数える一老木があります。いつの頃からか此の樹蔭に小石祠を設けて「天王社」と称し、里民の崇敬を集めました。
 
寛永三年(1626年)、京都祇園社の御神霊を合祀し、「祇園宮延寿院」と称しました。明治元年(1868年)、明治維新の神仏分離に伴い、「祇園社」から「八坂神社」に改称しました。八坂神社オフィシャルHPより
 

幕末期の八坂神社

 
 
「此の樹蔭に小石祠を設けて「天王社」と称し・・」という件は、違う八坂神社でも、よく出てくる文章である。
 
特別な出典はないが、祇園精舎は釈迦が説法を行った寺院であり、その釈迦の守護神が牛頭天王なので、釈迦に関係していると思われる。
 
平家物語に出てくる、「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」の沙羅雙樹(さらそうじゅ)は、釈迦の病床の四方に二本ずつ相対して生えていたという娑羅の木である。
 
イメージ的には、この木の陰にあった祠という事だと推測する。
 

八坂神社 拝殿内

 

牛頭天王

天王社(てんのうしゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社である。
 

牛頭天王

牛頭天王は仏教由来で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた大王だ。
 
蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされたともある。
 
牛頭天王がなぜスサノオとなったのか、武塔天神がなぜスサノオとなったのかは、日本独特の神仏習合に、その理由がある。
 
神仏習合とは、日本古来の神道と大陸からやって来た仏教を融合した、新しい宗教の事である。
 
最初は仏教が主、神道が従で、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける事も多かったという。
 

八坂神社 神殿

 
江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。 ウィキペディア
 
1000年も続いたのだか、神も仏も、日本人に合うように、強力にカスタマイズされているのだ。なので、仏教の牛頭天王と神道のスサノオの共通性を探し出し、合体させてしまったのだ。
 
牛頭天王は謎の神様で、朝鮮系の神様だとか、中国の民間信仰が起源などと言われているが、決定打はない。
 
牛頭天王、武塔天神、スサノオは武力の神で、悪霊を追い払い退治するという共通項がある。
 
まあ、それだけの理由で、様々な伝説が生まれ、イベントが作られたと思われる。なので、案外、適当なのだ。
 
1638年に今籠町(現在の鍛冶屋町の一部)から現在の場所に移転した。1868年、明治維新の際に名称を「祇園社」から「八坂神社」へ変更し、現在に至る。
 
盛夏7月に執り行われる「ぎおん祭」は約三百八十年前より疫病退散、家内安全、天下安泰の神事として行われてきました。長崎の人々には親しみを込めて「ぎおんさん」と呼ばれています。
 

八坂神社の茅の輪くぐり

古くから「長崎の夏は祇園さんのほおずき市で始まり、中国盆会で終わる」と言われるほど、八坂神社のほおずき市は長崎の夏を彩る風物詩のひとつとして、人々から親しまれてきています。
 

ほうずき


そして秋には、「長崎くんち」が八坂神社では10月8日(中日)に行われます。
 

くんち

 
稲佐などの対岸育ちや、浦上などに住んでいる人はピンと来ないけど、浜町界隈に住んでいる人の話を聞けば、確かにそうである。
 
八坂神社の横には、清水寺があれば、なんとなく京都感がある。寺町から小島までの小山の山裾に並んだ、寺院群を見れば、江戸時代の長崎の繁栄がわかる。
 

向こうは清水寺

そして小島川に架かる思案橋の向こうは、丸山遊郭。小島川の上流は風光明媚な別荘地域と、貿易で裕福な町人たちの姿が見えるようである。
 

櫻姫美人稲荷

櫻姫美人稲荷

さくらひめびじんいなりと読む。
 
「高平町に住む夫婦が参詣に訪れた折、出産のため難儀している狐を見つけましたので自宅まで連れ帰り、一生懸命介抱してあげました。
その甲斐あって無事、元気な子狐が生まれましたので十分に養生させた後、親子共々元のところに帰してあげました。
そうしたところ、その夜母狐が美しいお姫様に化身して夫婦の夢枕に御礼に現れました。」https://www.yasaka-jinjya.net/sakura.html
 

櫻姫美人稲荷

 
この桜姫という名称は、たぶん歌舞伎の『桜姫東文章』(さくらひめあずまぶんしょう)から来ているのだろう。
 

桜姫東文章

 
これは清玄桜姫物(せいげんさくらひめもの)とよばれ、京都清水寺の僧清玄が高貴の姫君桜姫に恋慕して最後には殺されるが、その死霊がなおも桜姫の前に現れるという内容である。
 
この稲荷のすぐ上が、長崎の清水寺である。
 
高位のお姫様が下級の女郎に転落するという、今でも人気の出そうなストーリーで、話題を集めたとされている。
 
長崎では、思案橋を渡れば、丸山遊郭の世界である。
 
これらの事を考えれば、豪商の遊び人が、八坂神社と清水寺の間に、櫻姫美人稲荷を祀ったのかと思う。
 

丸山の遊女

丸山遊郭の遊女たち

渡辺淳一の「長崎ロシア遊女館」を読めば、幕末から明治にかけての、遊女たちの意識がよくわかる。
 

長崎ロシア遊女館 (講談社文庫)

日本は、江戸時代にはオランダのみと貿易をしていたが、世界情勢の空気を読み、嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチン来航の際、長崎に初めて上陸を許した。
 
しかし、ロシアを警戒して港を隔てた漁村の稲佐を上陸地に指定する。
 
ロシアの兵隊がいれば、遊郭が必要となる。
 
長崎には丸山という大規模な遊郭があったのだが、丸山の遊女はロシア人相手を嫌がり、稲佐では急きょ遊女集めをしたのである。
 
昭和33年まで続いた稲佐遊郭は、大正14年に、貸座敷は19軒、娼妓の数は154名もいたという。
 

遊郭の風情を残す稲佐の建物

羅紗緬(らしゃめん)という言葉がある。日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称である。そんなラシャメン達がいたのが対岸地区稲佐である。
 
客を選ぶ丸山遊郭の遊女の気位の高さは、やはりこの地域の雰囲気から来たものだと感じた。
 

八坂神社

八坂神社

 

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