稲佐弁財天

小さいがちゃんとした神社である。
 
稲佐に住んでいて今まで知らなかったのが不思議なくらいだ。
 
その理由は路地の奥にあり、グーグルマップにはっきり書かれていないからである。とりあえず、グーグルマップに神社というタグを打っておいた。
 
マップには辯財神社(さとしざいじんじゃ)と書かれているので、昔はこう呼んでいたのかもしれない。
 
普通、辯財と書けば弁財天の略称である。辯という文字はさとしとは読まない。何か別の理由があるのかなと思う。
 
弁財天説明板より
 
稲佐の弁財天の由来(長崎市曙町)
寛永の昔、現在の淵神社の処に弁財天を祀る御堂があり、その地が旧稲佐村内であったところから、俗に「稲佐の弁天さん」と称していた。
 
正保4年(1647)この地(浦上淵村)に長崎寺町・延命寺の開基・龍宣が一寺を設け、宝珠山万福寺と称した。この寺は開創以来24年間、延命寺住職の兼帯であったが、明暦2年(1656)に至り、龍宣の法嗣たる龍盛を以って第二代の住持となし、その後、延命寺の末寺となった。
 
明治3年(1870)神仏混淆禁止の為、この寺は純然たる神社となり、淵神社と改称し、ご本尊弁財天並びに脇侍二体を延命寺に送った
 
明治22年(1889)村内有志発起して再び稲佐村に弁財天奉仕の議を起こし、翌23年この地に弁財天、二体を延命寺より迎え、村内にて資材を寄進し、稲佐万六氏社(旧稲佐村氏神)を改修し、稲佐氏並びに弁財天を合祀した。
 

稲佐弁財天

 
寛永とは1624年から1645年までの期間を指す。第3代将軍徳川家光の時代である。
 
由来書によれば、現在の淵神社のところに、この弁天神社が最初あって、明治3年までここあたりに祀られていたのだろう。
 
渕神社は江戸時代、宝珠山万福寺という寺院であり、弁財天が祭られていたことから「肥前稲佐弁天社」と呼ばれている。
 

淵神社

そして、明治になり稲佐の地にやって来た。
 
岩崎弥太郎が三菱重工業長崎造船所の守り神として崇敬したことから、現在でも同社や関連企業の多くが新年の祈願などを同神社で行っている。
 
なるほど。
 
それが明治元年(1868年)の神仏分離令により、弁財天は市杵島姫命の本地仏なので、渕神社は祭神を宗像三女神に改める。
 
渕神社から追い出された弁天様は延命寺に預けられたが、村民の努力により明治22年(1889年)に稲佐万六氏社(旧稲佐村氏神)を改修し、稲佐氏並びに弁財天を合祀したとある。
 
由来書はさらりと書いているが、説明しないとわかりにくい部分がある。
 

弁天様

「弁財天は市杵島姫命の本地仏」とある。ここがわかりにくいか。
 
いわゆる弁天様は、仏教の仏様である。
 
もともとヒンドゥー教の女神だが、仏教に取り込まれ、仏教の守護神である天部の一つになった。
 

ヒンドゥー教のサラスヴァティー 弁才天

弁才天は本来、水の神様なのだが、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることも多くなり、財宝神として広まっている。
 
弁天様といえば、美しい天女の姿が有名で、その手には楽器の琵琶を持っている事も多い。
 
歌舞伎芝居で「白浪五人男」というのがあり、その中の一人が「弁天小僧菊之助」という。
 

弁天小僧 市川雷蔵

この大泥棒は、女性に化けた美男子で、「知らざぁ言ってきかせやしょう」と啖呵を切る名場面がある。
 
それほど弁天様は日本中にあり、そして天女の代名詞だったのである。
 
本地仏とは、本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神という考え方を日本人はしていた。
 
なぜこんな事を考えたかというと、日本に仏教が入って来た時、それまでいた神様たちをどうしようかと考えた。
 
そこで、神仏をごちゃ混ぜにして、仏様をメインに、昔からある神様を本当は仏様だったという本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考え方をこしらえたのである。
 
だから、弁財天という仏様は、市杵島姫命(宗像三女伸の一人で、海の神様)の仮の姿なんだ、という事で、弁天を市杵島姫命に置き換えたのである。
 
かなり強引なのだが、明治新政府は、昔からあった神仏習合の慣習を禁止して、神道と仏教を区別させたのだ。
 
その理由は、神道の天皇家を政治の中心に据えたからであり、それまで仏教の制度に不満が募っていた民衆の思いが加わり、寺院や仏像の破壊まで、おこなわれた。
 
まあ、寺というのが国の保護を受けて、キリスト教排除のために、地域の住民をすべて檀家にしてしまい、その後色んな利権をむさぼり続けていた事も原因だと言われている。
 
道にあるお地蔵さんの首がないのは、明治時代に廃仏毀釈運動で住民から壊されたものも多い。
 

悟真寺脇の地蔵

そんなわけで、弁才天は市杵島姫命となったのである。
 
渕神社の弁天様が宙に浮いてしまったので、稲佐の住人が現在の場所に、弁天神社を作ったという訳である。
 

弁天町という町名

稲佐山のふもとの町名は、昭和に入り、新しい枠組みとなり大幅に変更されている。
 
稲佐など昔からの呼び名もあるが、まったく新しく創作された町名がほとんどである。
 
稲佐山の麓は、朝日が正面から上がってくるので、旭町、曙町、光町といった町名がつけられた。
 

正面に朝日が昇る 稲佐弁財天

ところが、ひとつだけ違う町名がある。それが弁天町である。
 
弁天町は旭町、光町に挟まれた地域で、その名前の由来が、昔から弁天町と呼ばれているので、そのまま残したという。
 
現在は、この地域のどこを探しても弁天を祀っていたという所がないので、稲佐弁天神社が弁天町の名前の由来だと推測する。
 

稲佐神

そして一番気になるのが、「稲佐万六氏社(旧稲佐村氏神)を改修し、稲佐氏並びに弁財天を合祀した」という所である。
 
旧稲佐村の氏神「稲佐万六」とは何だろうか。
 
そんな名前の神様など一度も聞いたことがない。そしてそれが稲佐村の氏神だという。
 
たしかに、社の右手に石碑が祀られていて、それには「稲佐様」と書かれている。
 

稲佐様の石碑

これが稲佐村氏神の本尊だったんだろう。
 
稲佐様と様をつけられているので、神様ではなく人物だったのかもしれない。
 
稲佐という地域の名前は、その由来が謎で、私も昔散々調べた事がある。
 
 
 
 
稲佐で一番有名なのは、出雲の稲佐の浜である。この浜は神話の国譲り、国引きの舞台である。
 
古事記では、「伊那佐の小濱」日本書紀では「五十田狭(いたさ)の小汀」と書かれている。

出雲の稲佐の浜

そして、出雲の稲佐の浜には、小さな岩の島があり、この島を弁天島という。
 
長崎の稲佐にも弁天神社がある。
 
これは偶然ではなく、何かの言い伝えか、意図的なものを強く感じる。
 

佐賀の稲佐神

また、稲佐という地名は佐賀にもある。
 
佐賀県杵島郡にある稲佐神社である。
 

佐賀県 稲佐神社

祭神は五十猛命、大屋津姫命、天神、女神、聖王神(聖王)、阿佐神(阿佐太子)で、聖王神(聖王)は百済の王様という少し変わった神社である。
 
私も一度行ったことがあるが、古いが立派な神社で、真言寺十六坊と呼ばれる神宮寺が、神社へ上る石段の左右に建てられている。
 
創祀年代は不詳となっているが、飛鳥時代に百済より阿佐王子が来朝し、この地に留まり居を定めたとあるので、かなり古い。
 
そして私は、長崎の稲佐山と関係があると思っている。
 
長崎の弁天神社の由緒にある「稲佐万六」だが、佐賀の稲佐神の「十六坊」から来ているのかなと思う。
 
稲佐神の真言宗「十六坊」は、いわゆるお寺である。そこに関係している人たちが、稲佐地区に移り住んできて、信仰を広めたのではないのかなと思う。
 
飛鳥時代に百済より阿佐王子が来朝したとあるが、佐賀の中央の山に稲佐神社はあるので、百済から佐賀に行くには、長崎経由だったと想像できる。
 
百済から長崎に上陸し、時津へ渡り、船に乗り川棚まで行き、それから佐賀の奥へ進んでいった。そんな想像ができる。
 
とすれば、最初に長崎の海岸に留まるはずである。
 
なので「稲佐」とは、百済の王族を意味しているのかもしれない。
 
それならば、百済の王族が上陸した地域を、日本人が稲佐と呼んだのかもしれないのだ。
 

稲佐氏

稲佐に長崎市に現存する最古の寺院、悟真寺という寺がある。
 

悟真寺

悟真寺は1598年(慶長3年)肥前国彼杵郡淵村稲佐郷の岩屋山神宮寺支院跡地に本寺を創建したとある。
 
つまり悟真寺の前は岩屋山神宮寺支院跡だったのである。
 
そして悟真寺となる以前のこの場所は土豪稲佐氏のやかたがあったところらしい。
 
となれば、岩屋山神宮寺支院は、佐賀の稲佐神の真言寺十六坊の末寺だったかもしれないのである。
 
ここから稲佐の地名が生まれたのではないだろうか。
 
そして稲佐の地に住む豪族か僧侶、山伏を稲佐氏と呼んだのではないかと思う。
 
悟真寺内の古井戸は長崎名勝図絵では「旧稲佐氏居宅のもの、或いは南蛮人の掘ったものという。(深きは10尺ばかり)とあるが現在の悟真寺では稲佐氏の井戸ということになっている。
 
さらに、貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とあり、中略 宮方についた武士の中に稲佐治都夫輔の名がみえる(大平記・鎮西志・治乱記)。
 
 
と書かれているのを、長崎の郷土史家の人たちは長崎の稲佐山の事だと思っていた節があるが、たぶん佐賀の稲佐神社の事だと思う。
 
現実に、稲佐様という石碑が祀られているので、間違いないだろう。
 
出雲の稲佐の浜、佐賀の百済王族が住み着いた稲佐神社、そして長崎の稲佐山。
 
これらの関係は、不明だが、話をもっと古代の神話から始めると、これらの地域はつながってくるだろう。
 
今回は書かないが、いつか、もっと掘り下げて書きたいと思う。
 

原爆鳥居

原爆鳥居

第2次世界大戦時の原爆の爆風で、それまで境内に入る階段の上り口で参拝客を出迎えていた鳥居は、一瞬にして上半分が吹き飛ばされた。
 
被爆から十五年後、道路拡幅工事に伴い境内に移転。「神様を祭る場所だから大切にしよう」「原爆による被害を後世に伝えたい」という住民らの思いがあった。長崎新聞より
 
境内の脇に立っている折れた鳥居の足がある。その爆風のすさまじさを目撃できる身近な場所である。
 
稲佐山の麓地域は原爆の遺構が多い地域だが、残っているものは少ない。
 
この神社のもう一つの顔である。
 

稲佐弁財天

稲佐弁財天

稲佐弁財天