大原野神社 時津の感染症退治の摩利支天に祈る

長崎県西彼杵郡時津町野田郷607番
場所は時津のカナリーホール方面。カナリーホールに行かずに、道をまっすぐ進むと、手書きの看板がある。
 

看板

看板2

孟宗竹の林の中に一の鳥居がある。石段の参道を結構上ると、ややこじんまりとした神社がある。
 

一の鳥居

一の鳥居

大野原神社の参道。急こう配のくねった道が続く

大野原神社

拝殿横に立て札があり由緒が書かれている。
 
由緒
「摩利支天は、元禄十四年(1701年)に冨永五郎左衛門の建立に始まり、享保十九年(1734年)九月に疱瘡(ほうそう)大流行の折り、その平癒祈願のため草庵が建てられ、安政三年(1856年)草庵は拝殿として建て直されました。
御神体は、建雷神(たていかづちのかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・布津主命(ふつぬしのみこと)・摩利支天の神々と加藤清正公で、古来より戦いの神様として人々に尊敬されています。
 

立て札

 
とある。
 
冨永五郎左衛門を調べてみると大村藩のキリシタン奉行だった。
 
万治元年(1658年)初代 宗門奉行と記録にあり、かなりの要職だったとある。
 
宗門奉行とは、禁教令の発布に伴いキリシタンの摘発を目的に設置された部署の事である。
 
神社が作られた元禄十四年(1701年)の大村藩も、キリシタンへの徹底した予防と探索を行い、領民に対し仏教・神道への信仰を強化する方針をとっている。
 

疱瘡大流行

疱瘡

享保十九年(1734年)九月に疱瘡(ほうそう)大流行した。
 
疱瘡(ほうそう)とは天然痘(てんねんとう)の事で、天然痘ウイルスを病原体とする感染症である。
 
この天然痘は日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに持ち込まれたと考えられている。
 
大村藩も疱瘡対策に力を入れていて、大村藩医長与俊達が、当時画期的な種痘(しゅとう)法といわれた人痘腕種法や、日本最初といわれる牛痘接種に成功している。
 
しかしこの種痘成功は嘉永2年(1849年)で、それまでは、この病気の対処法はなかった。
 
なので日本各地には疱瘡神除けの神事や行事が今も数多く残っている。
 

神社の境内

大野原神社

大野原神社 拝殿内

大野原神社の神殿

古戦場の石碑 大村氏VS有馬氏 中岳城の戦の事か?

 

摩利支天

拝殿横に摩利支天神社への鳥居がある

摩利支天神社への道

摩利支天神社

摩利支天は太陽や月の光線を神格化したもので、光は焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。 禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている。ウィキペディア
 

摩利支天神社の中

時津の摩利支天もそうで、山頂の祠には日蓮宗の幕があった。
 

山頂からの眺め

山頂までは、道が険しいので、下部の方に草庵(仮小屋)が建てられ、安政三年(1856年)草庵は拝殿として建て直された。
 
それが、明治元年の廃仏毀釈の方針に従い、大原野神社と改称する。なぜなら、摩利支天は仏教の仏様だからである。
 
社名を、なぜ大原野神社としたのか不明でだ。
 
大原野神社は、京都府京都市西京区大原野にある神社で、奈良春日社と同じ藤原氏の氏神を祀っている由緒ある神社だ。
祭神も時津の大原野神社と同じで、改名の際に、京都関係の人がいたからだろうと推測される。
 

参道

現在も鳥居から拝殿に至る参道の左右には、杉木立が並ぶが、元来この木立は明和8年(1771)に豊田吉右衛門によって植林されたものである。その大半は安政三年の拝殿再営の折に用材として使われたが、一部には植林当時の木立が残っている。
 
昭和57年の長崎大水害に際して、烏居より上部の参道が破壊、大被害を受けた。しかし氏子一同奉賛の誠をもって復旧事業を起し、自然石階段を設けた立派な参道を復旧することができた。時津町教育委員会
 

参道

参道

 
現在は、野田・左底・久留里・長崎市横尾の氏神となっているとある。
 
山の中にある神社なので、世話するのは大変だと思われるが、ある程度整備されているのを感じる。
 
もともと感染症退治として作られた神社である。
 
今のコロナ禍にも、力を発揮してくれるかもしれない。
 
そう考えながら、私も拝殿で手を合わせた。
 

摩利支天

 

コメントを残す