旭町のこがね橋 黄金伝説の島とえびす様

こがね橋

こがね橋

旭町商店街と丸尾町の間に、こがね橋という橋が架かっている。

特に目立つ橋でもないのだが、昔この橋の脇で、写真スタジオを経営していたことがあるので、強い印象がある。

この橋については、「長崎稲佐風土記 松竹秀雄/著」に少し載っている。

長崎稲佐風土記によれば、昭和10年頃に、この橋の旭町側に黄金(こがね)館という芝居小屋があったという。

黄金館はこの辺りにあったと思われる

現在の橋は昭和55年10月に架橋されたと銘に打っているが、これは新しいコンクリート橋の事で、最初のコンクリート橋は大正11年3月の架設であり、もっとそれ以前は明治39年2月にかけられた木製の橋だったらしい。

この何の変哲もない橋なのだが、名前が気になるのだ。

「こがね橋」にはどんな意味があるのだろうか。

ながさき稲佐ロシア村

この稲佐の地域は昔は、たいへん賑わっていた。

幕末から三十六年の間『稲佐はロシアの船乗りにとっては昔から馴染みの土地であった。』当時、ロシア海軍士官の止宿先となっていた稲佐地域。

ながさき稲佐ロシア村 松竹秀雄著

これもまた松竹氏の本からの引用なのだが、稲佐地区は、幕末からロシア海軍士官の宿泊地となって大いに栄えたのである。

「いなさお栄」という女傑の話も残っており、日露戦争後、敗軍の将として稲佐にやって来たステッセル将軍の上陸の碑もある。

ステッセル将軍の上陸の碑

ステッセル将軍の上陸の碑

明治時代に稲佐地区は埋め立てが進み、明治の終わりごろ「こがね橋」は架けられたと推測できる。

今の様に、旭町商店街と丸尾地区はくっついていなくて、結構広い港で、埋め立てが進んだので橋を架けたのだろう。

その橋の名前が「こがね橋」である。

なぜ「こがね橋」という名になったかというと、ロシア海軍士官が大勢稲佐にやってきて、その為、景気が良くて黄金が湧いてくる場所だったという話をどこかで読んだのだが、どうも適当な話のようである。

「こがね(黄金)」という言葉が、なぜ付いたのかを推理する。

釛山(こがねやま)恵美須神社

同じ稲佐対岸エリアに「こがね」の言葉が付く神社がある。

それが水の浦の釛山(こがねやま)恵美須神社である。

釛山(こがねやま)恵美須神社

釛山(こがねやま)恵美須神社 片隅に置かれている稲佐神社と書かれた石板

釛山(こがねやま)恵美須神社は、一時期、稲佐神社という名称だったのを思えば、水の浦まで稲佐地区だったという認識があったのだろう。

そして、今は三菱の工場で埋め立てられているが、恵比須神社の前に、金(こがね)島という小さな島があった。

金(こがね)島

この島には、この島の下半分には金なので掘ってはならぬという言い伝えもあり、そこから金(こがね)島と名付けられたという。

この島には恵比寿の祠があり、一時期罪人を磔にした島だった。

この金(こがね)島から、釛山(こがねやま)恵美須神社は出来たと思われるが、「この島の下半分には金なので掘ってはならぬ」という言い伝えとは何だろうか。

えびす

釛山(こがねやま)恵美須神社の祭神は、事代主で大国主神の子とされる。

なぜ大国主神の子が祭神かといえば、出雲の大国主が七福神の大黒様と読み方が同じなので、混同されたからである。

大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、一組で信仰されることが多い。

大黒様は本来インドの仏様で、本当は顔が真っ黒けの怖い神様なんだが、いつの間にか、七福神では、にこやかな顔の食物・財福を司る神になってしまった。

そして、その姿は一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で描かれている。

七福神 大黒

ここに、「黄金(こがね)」が出てくるのだ。

「打出の小槌」を振れば、黄金も出せる。

この連想から、えびす=だいこく=こがね(黄金)がつながってくるのだ。

金(こがね)島の名前も、本来は「はだか島」という名前があるのだが、えびすの祠があるせいで金(こがね)島と名付けられたのだろう。

こがね橋

それなら、旭町のこがね橋に「えびす」はあるのだろうか。

あるのだ。

表通りからは見えないが、こがね橋の近くに、えびす神社がある。

旭町 えびす神社

えびす神社

という事は、こがね橋という名前は、えびす神社に行くための橋だったので、こがね橋という名前を付けられたのだろう。

ただ、「こがね」と「えびす」の組み合わせは一般的ではない。

となれば、釛山(こがねやま)恵美須神社と旭町のえびす神社はつながりがあるのだろう。

金(こがね)島の黄金の言い伝えの通り、この島は信仰の島だったと思われる。

そしてこの島に行くには、稲佐の海岸か釛山(こがねやま)恵美須神社の二か所だったのかもしれない。

それとも、旭町のえびす神社は、金(こがね)島のえびすの祠の分社かもしれない。

ここまで推理が進んで、やっと自分でも納得した。

ただ、推理なので事実とは言い切れないが、状況証拠からいえば間違いないだろう。

こがねの地図

比翼塚

この金(こがね)島の話には、男女の悲恋話がついている。

伊藤小左衛門という江戸時代初期の福岡藩主黒田氏の御用商人だったという人物がいる。商才を発揮して財を築いた初代の跡を継いだ2代目で、商売の為長崎に住むようになる。

しかし大がかりな密貿易が発覚し処刑されている。

その事で、馴染みだった丸山の遊女は悲しみの為身投げしたという。

ある時、金(こがね)島で文字の書いている石碑が現れる。それは石工の善之助の夢に出て、骸骨が2体あるというので、夢に出たところを掘ると確かに骸骨が出てしまった。

そして、それをこがね橋をわたり、崖を上がった稲佐の悟真寺に合葬したという。

今でも自然石に「金島枯骨合葬之処」という比翼塚があり、石碑も存在する。

悟真寺

比翼塚

比翼塚

この話は少し不明な点があり、この比翼塚が伊藤小左衛門と遊女の墓だとは断言できないが、水の浦のえびす神社ではなく、稲佐の悟真寺に石碑があるという事は、金(こがね)島は、旭町のえびす神社と関係があるという事になるだろう。

稲佐の悟真寺にの隅に、石碑と詳しい話が書いてある案内板があるので、気になる方はお勧めする。

何気ない小さな橋だが、その成り立ちは奥が深く、入り組んでいる。

そう感じた。

こがね橋より

 

コメントを残す