時津八幡神社 古代の繁栄と軍事拠点としての時津

〒851-2105 長崎県西彼杵郡時津町浦郷297
 

時津 八幡神社

 
場所は時津警察署のちかくで、時津中央公園の脇にある。撮影に行った時期が4月だったので、境内の見事な桜が満開だった。
 
小高い丘にあり、立派な石垣と階段、白塗りの塀、入り口にはの祭神「誉田別命(ほんだわけのみこと=品陀和気神)」の紋と言われている左三つ巴紋が大きくある。
 

時津八幡神社

 
時津の神社はとてもきれいに修復されているのが印象的だが、ここもまた立派な構えで、下から見上げると大きなお屋敷のようだ。

三つ巴紋

神社に多く使われている三つ巴の紋だが、向きが左と右がある。
 
右三つ巴(ぎみみつどもえ)の紋章(右に向かって細くなる三つ巴の紋)と逆向きの左三つ巴紋で、この八幡神社のは左三つ巴紋である。
 
この身が右左には特別な違いがなく、弓手の手首につける鞆(とも)の形から来ているという説や勾玉から来ているという説もあり、平安後期から大流行したとされている。
 
一般的には八幡神社の神紋に多く、その影響からか、武士階級に使用氏族が多い。
 
ちなみに忠臣蔵の陣太鼓は、右回り二つ巴である。
 

陣太鼓

 
祭神は品陀和気命(応神天皇)で、仲哀天皇と神功皇后の第四皇子である。
 
この神社の由来では、四世紀末、神功皇后朝鮮出兵の折、占いにより時津の浜に上陸されたという伝説がある。
 
そして、皇宮の胎中にあられた応神天皇を後年武神として祭る、とある。
 
この伝説には、おなかに巻いて出産を遅らせたといわれている鎮懐石、月延石、安産石の話がついていて、他の神社にも多く祀られているが、ここにはなかった。
 
 
由緒
神躰は寛永十七年二月十五日(1640)小島田八幡山に海田次郎兵衛が寄進。
神殿・拝殿は、井出太郎兵衛が建立した。ご利益は、家内安全・開運である。
十七世紀後半、時津村に疱瘡が流行したので、八幡山よりここに迂座し、天明八年(1788)神殿・拝殿は再建された。
 
由緒では最初、4世紀末の神功皇后朝鮮出兵の話があり、そのあと1200年後に八幡神社になったことが書かれている。
 
その1200年間は何という神社だったのだろうか。
 

古代の時津

民俗資料館

カナリーホールに時津町民族資料館があり、そこには縄文時代の石器や遺跡が展示されている。
 
 
大村湾の南西部奥に位置する前島とその属島のダケク島にある8基の円墳からなる前島古墳群から出土した土器等も紹介されています。
http://nagasaki-bunkanet.jp/institution/時津町民俗資料館/
 

民俗資料館 前島の古墳

縄文の遺跡

遺跡分布図

 
展示には磨製石斧(ませいせきふ)の展示もあり、縄文時代から人々が住んでいたことがよくわかる。
 
展示には解説があり、曽畑式土器(そばたしきどき)が時津北小学校から発見されたとある。
 
曽畑式土器(そばたしきどき)の解説で
 
 
縄文時代前期(鬼界カルデラ大噴火後)の標式土器であり、九州や沖縄から見つかっている。朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。ウィキペディア
 
 
と書かれている。
 
7300年前、鹿児島沖の鬼界カルデラ大噴火という破滅的な噴火が起こり、長崎に住んでいた縄文人たちも、一度滅んだといわれている。
 
その後、縄文人が再び集落を作り、土器を製造している。それが曽畑式土器である。
 

曽畑式土器

 

5000年間 無人だった朝鮮半島

櫛目文土器

ウィキペディアには朝鮮半島の櫛目文土器とよく似ているので影響を受けたと書かれているが、これは完全な間違いである。
 
朝鮮半島本土では、約12000~7000年前の遺跡が見つからない。この約5000年の間、朝鮮半島は無人だったのである。
 
韓国・北朝鮮の最古の新石器時代の遺跡は、済州島の高山里遺跡で、約10000年前~7000年前とされている。
 
この済州島の遺跡では、隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっていて、似たものが日本にもある。
 
済州島は対馬の近くであり、ほぼ日本と言っていい。
 
7000年前まで人が住んでいなくて、突然、櫛目文土器が発見されているのである。
 
どう考えても、朝鮮の櫛目文土器を作ったのは、朝鮮半島にわたった縄文人が作ったと考えるほうが自然である。
 
今の学者の人たちが、よく使いたがる朝鮮半島の影響だが、無人の半島に文化が育つわけがない。ここでいう事はないのかもしれないが、毎回の解説で腹が立っている。
 

滅ばなかった縄文人

鬼界カルデラの火山灰の地層の下から出てきたのが轟A式土器、その上から出てきたのが轟B式土器と呼ばれている。
 
同じ形式の土器が発見されたことで、縄文人は滅んでいなかったことが証明されている。
 
そして、その轟B式土器は南島系海人族の影響を受けていることが分かっている。
 
つまり、時津の縄文人たちは南方からやってきたか、交流があったのである。
 
さらに、弥生時代中期(今から2000年ほど前、西暦0年くらいか)の、壺や美しく磨かれた石斧が発見されている。
 
これは、時津に何千年も人々が連続して暮らしていた証である。5世紀から7世紀と思われる鉄製の太刀などが、時津の子々川(ししがわ)の前島で発掘されている。
 

刀や土器

 
そういえば、
 
約1700年前にあたる弥生時代末ごろの鍛冶(かじ)工房跡が、長崎県大村市今富町の住宅地で発掘されたというニュースがあった。
 
大村市今富町は、長崎空港の北側にあり、時津とは海路経由ですぐ近くだ。
 
同じ北側の先には、東彼杵のひさご塚という前方後円墳もある。
 
そう考えれば、時津は大村の文化圏の一部と発展してきたのだろうと思う。
 

ひさご塚

時津という名前

時津という名前の由来だが諸説ある。
 
時津風という言葉があり、「良いタイミングで吹く追い風」という意味で、めでたいとされている。
 
そのせいか、相撲の名跡にもあり、日本海軍の駆逐艦にも名づけられている。
 
「ときつ」という読みには「鯨津」というのもある。長崎県雲仙市国見町多比良町にある氏名だ。
 
ここに「鯨」という文字が出てくる。クジラと言えば東彼杵である。必ず関係があるはずだ。
 
「とき」という言葉で思いつくのが、「トキのを上げる」という、エイエイオーの叫び声だ。「かちどき(勝鬨)」
 
これは武家の作法なのである。
 
この「とき の こえ」の事を鯨波(げいは)という。この意味は、鯨のように大きな波、もしくは勢いという意味である。
 
ここからは、私の推理である。
 
古代より、時津港はにぎわっていた。これは前述したとおりである。
 
その港に神社があった。それが時津八幡神社だったのだ。
 
昔は八幡神社とは呼ばなかったと思う。
 
時津港にはえびす像を多く祀っているので、最初はえびす神社だったのかもしれない。
 
そして1640年、小島田八幡山に海田次郎兵衛が八幡神を持ってきて、八幡神社となった。
 
その時代、八幡神社には「ともづな石」という石が残っており、直接この辺りに船が係留されていたのだ。
 

ともづな石

軍港か

八幡神社は武家の神社である。
 
港にあるのに恵比寿神社や弁天神社ではなく、武家の守り神、八幡神を祀ったという事に意味があると思う。
 
戦国時代、時津には武士団がいた。
 
 
時津町のあゆみより
時津町の起源は、はっきりはしませんが、鎌倉時代には「時津」と呼ばれていたようです。
中世の開発時代起源には、荘官あるいは地頭として時津氏一族が活躍し、少なくとも室町時代には大村領に属していたようです。また、大村氏が、中岳城の一戦に敗北して、一時期、有馬氏に領されたこともありました。 時津町ホームページ
 
 
時津氏一族は、長崎の多治比氏の子孫と言われており、古代より地元の元締めだと思う。
 
平和な時期には一般的な漁港だったと思うのだが、戦国時代になると大村氏や長崎の豪族との争いなどで、大村湾側の出入り口になっていったのだろう。
 
だからこそ、港にあった神社を八幡神社にしたのではないだろうか。
 
戦国時代が終わり、秀吉や家康の時代になっても、船で出入りするものは絶えなかった。
 
 
江戸時代は大村藩領で、時津港は彼杵港(現: 東彼杵町)との間に船便があり、長崎街道の近道として交通の要衝だった。
 
この「時津街道」は大名や幕府の役人にも利用され、そのため時津は港町・宿場町として発展した。現在もその名残として「お茶屋」と呼ばれる大名や幕府の役人が宿泊するための屋敷が残る。
 
時津という町名だが、いろいろ推理できる。
 
とき津なので「とき」の港である。
 
この「とき」にはいろんな意味がある。
 
神功皇后の凱旋を祝し、ときの声、勝鬨(かちどき)を上げるという意味の「とき(鬨)」。
 
「とき」という字が鯨波とも書き、時津港にクジラが荷揚げされていたこと。
 
時津風という、いい事の追い風という意味。
 
いろんな意味が重なったのかもしれない。
 

時津古地図

時津現代地図

 
時津とはいい名前だと思う。
 
何千年もの時間の中で存在し続けていた港という名前にもとれる。
 
事実そうである。
 
長崎港は外洋との貿易港で、時津は内陸の政権の影響を受けた港だったのだろう。
 

八幡神社

八幡神社

八幡神社

八幡神社

八幡神社

 

この時津の八幡神社はきれいだが、神仏的な由来は少ない。
 
ある時期から、この港は単なる漁港ではなく、戦時の戦略的な拠点になっていったのかもしれない。
 
妄想が膨らむ神社でもある。
 
下の文は時津の日並郷の推理である。よろしかったらどうぞ。
 
 
日並郷の火首・火渡・火篭の謎を解く
 

八幡神社

 

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