対馬への旅(3) 不気味なリアルさを体感する韓国展望所

和多都美(わだつみ)神社から出発して、対馬最北地域にある韓国展望所に向けて走り出す。

ほとんど山道である。それもアップダウンの繰り返し。

対馬の山道

一本道なので、迷う事はないが、木々に覆われた山道を走り続けていると、いったいここがどの地点なのかというのがわからなくなってしまう。

時々港の集落に出るが、スーパーやコンビニを見つけることができなかった。

後で調べると下対馬の厳原の町に、コンビニはファミリーマートが一軒あるだけだった。

私のような旅行者にとってコンビニは重要である。食料もあるしトイレもある。それが一軒しかないとは思わなかった。

韓国展望所までは2時間もかからなかった。

その間、観光案内に載っている地域や神社もあったが、それは帰りに余裕があれば見る方針である。

なぜこの場所に行こうと思ったのかと言えば、対馬と朝鮮半島がどれだけ近いのか、この目で見たかったからである。

対馬と朝鮮

韓国展望所入り口

ぐるぐると山道を行った果てに韓国展望所についた。

駐車場にはトイレと飲料とアイスクリームの自販機がある。

人が一人いたが、観光客ではないようだ。他は誰もいない。

暑いし、おなかがすいていたので、アイスクリームを二つ買い食べる。これで空腹は少し落ち着く。後で気づいたのだが、対馬にはこのアイスクリーム自販機が至る所にあった。

韓国展望所

パンフの解説によれば、韓国古代建築様式を取り入れた展望台という事である。

確かに近代的ではない中国大陸ふうである。私は韓国ふうというのが判別できない。すべて中国風だからだ。

韓国展望所内

中は韓国と対馬関連の展示物があったが照明はなかった。

展望台の中に入り、窓の外に設置されている望遠鏡の横から朝鮮側を見る。

展望所

ガスがかかっているが、おぼろげに朝鮮半島が見えた。

「近いなー」これが感想である。

これだけ近いと、攻めてくると実感した。

対馬側には自衛隊のレーダー基地がある。国防の為なので当たり前だと感じる。

横に広がっているのが朝鮮半島

自衛隊の基地

襲撃された歴史

対馬と朝鮮半島は古代より、いいも悪いも関係がある。

まず、白村江の戦い(663年)がある。そして刀伊の入寇(といのにゅうこう)というのもある。さらにモンゴルによる中国王朝、元が攻め込んできた元寇もある。

刀伊の入寇は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。

朝鮮半島から攻め込んできた刀伊の入寇、元寇の際には対馬の人々は虐殺されている。

刀伊の入寇の際も、たぶん遠くに見える朝鮮半島からやって来る船団がはっきり見えたはずだと思う。

この場に立てば、時空を超えて、それさえもリアルに想像できる。

そのリアルさを感じることができただけでも、この地にやってきてよかったと思う。

対馬を調べる

旅行が無事終了した後、図書館へ行き、対馬関連の本を8冊借りてきて読んでみる。

詳しく知るには、ネットだけでは無理なのだ。ネットには観光関係のデータや私的な意見や空想がてんこ盛りで、詳しいデータはほとんどないのである。

海童と天童―対馬からみた日本の神々

神社の起源と古代朝鮮(平凡社新書) 岡谷 公二

神社のルーツ 血統から探る「神様ネットワーク」 [ソフトバンク新書] 戸部 民夫

日本の神々―神社と聖地 (1) 谷川健一編

海と神そして日本人 鈴木 啓輔

海童と天童―対馬からみた日本の神々 永留久恵

対馬の歴史探訪 永留久恵

古代史の鍵・対馬 日本と朝鮮を結ぶ島 永留久恵

古代日本と対馬 日本文化叢書 永留久恵

である。

永留久恵さんの本が多い。

永留久恵さんは対馬生まれの方のようで、プロフィールを見れば対馬で小・中学校教員、校長を歴任とある。受賞歴もある文筆家のようで、地元だからこれだけ詳しく書けるのだ。

それらの本によれば、対馬で櫛目文土器が発掘され、朝鮮半島の南にも縄文土器が混入した遺跡があるという。

さらに、韓国で前方後円墳が見つかっているのは、南西端に位置する栄山江流域で、少なくとも14基あるという。

韓国の学者は、日本の影響を受けていないと主張しているが、どう考えても栄山江流域は百済のあった場所である。

影響というより、朝鮮半島南部はヤマト政権の支配下にあったと考えることが自然だろう。

対馬海流

4が対馬海流

対馬からこれだけ近いのだから、頻繁に行き来していたと思われがちだが、対馬と釜山の間には、対馬海流がある。

人力以外、動力のない時代では、風や潮流、人力で進んでいく。

対馬海流は暖流で、日本海側の地方はこの為、稲作に適した穀倉地帯となっている。

また季節風もあり、緩やかな冬は季節風の影響が強く、航行には不向き、春から秋が航海の時期とされていた。

朝鮮半島からの大規模襲撃の刀伊の入寇は、1019年5月4日。

元寇の文永の役は1274年10月5日、弘安の役は1281年5月21日である。

この時期を見ると、梅雨時や台風シーズンを避けていたことがわかる。

さらに一番近い対馬、釜山間だが、釜山から対馬への航海は大変難しいが、その逆はある程度容易だったようだ。

この対馬、朝鮮半島の海上交通に関して、その航海の難易度を考慮にいれていない学者も多く、再考を促したい。

この事実により、倭人は朝鮮半島へ進出するが、朝鮮半島からの日本入りがそれほど頻繁ではなかったと推測できる。

謎の辰国(しんこく)

辰国

『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、伝説の衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に、現在の朝鮮半島の南部にあったという国である。

しかしその存在の記録は少なく、その詳細はほとんどわからない。民族系統は不明であり、群小の国々の総称なのか一国の名なのかもわからない。

不思議な話である。

もし国らしきものがあったのなら、当然、倭国の国というのも可能性がある。

朝鮮半島の歴史を見てみれば、はっきり存在がわかる百済・新羅が国家としての体裁を整えるのは4世紀中頃からである。

なので朝鮮半島の古代史は、中国王朝の記録だけしかない。

それでも伝説だけはあり、韓国が言い張る檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、なんと紀元前2333年出来たという。

そして韓国国定の国史教科書でも檀君即位を「歴史的事実」として紀元前2333年の年号入りで教えている。

当然、世界から見れば神話の類なのだが、これを事実と言い張る韓国・北朝鮮が恐ろしい。

それでは実際はどうだったのかが中国の歴史書である程度分かっている。

最初は漢四郡(かんのしぐん)がある。

朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡(植民地との見方も存在す)のことである。

衛氏朝鮮は、朝鮮の王国ではない。

単に朝鮮半島にあった国で、中国の燕に出自を持つ中国人亡命者が作った国だ。

「衛氏朝鮮」という名は、箕子朝鮮(中国人の国)や李氏朝鮮(朝鮮人の国)と分けるためで、朝鮮半島にあった国という事で、司馬遷が地名を借りて表現しただけである。

中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。

つまり、邪馬台国の時代までは、朝鮮半島は中国王朝「漢」の支配下にあった。

朝鮮民族が出てくる幕はなかったというのが事実である。

ということであれば、古代対馬と朝鮮文化が交じり合うことなどなかったのであり、対馬が朝鮮の国だというバカげた妄想は、入る余地がないのだ。

三韓征伐

三韓征伐

日本の神話に三韓征伐がある。

対馬に関する記述の中に、『日本書記』に「冬十月の己亥にして辛丑に和珥津(わにつ)より発ちたまふ。(略)」というのがある。

和珥津(わにつ)が現在の対馬の上対馬町鰐浦(わにうら)だとされている。

鰐浦(わにうら)

鰐浦集落

韓国展望所がある場所が、この鰐浦(わにうら)である。

三韓征伐が作り話だとしても、すべてがそうではないと思う。

韓国展望所がある鰐浦の存在が、それを物語っている。

後世の日本人が、この伝説を作り出した背景には、対馬から目視できる距離に、朝鮮半島の釜山がある事によるのだろう。

私がこの展望所で見ても、近いと感じる。

視力が抜群に良かったとされる縄文時代の人々には、もっとはっきり見えたに違いない。

絶対対馬人は、盛んに朝鮮半島に渡ったはずである。

間違いない。

韓国展望所

韓国展望所


 
対馬の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/tushima/kaisetu.html

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