この神社は、長与町の長与川の脇にある。岩淵神社の岩淵という地名だが、その由来がわからない。

川のそばだから、この辺りは昔、淵だったのかもしれない。同じような名前に長崎市内の稲佐山ロープウェイの発着所になっている淵神社がある。それとも、山の縁(ふち)にあるからかもしれないなと思う。

この神社には公式ブログがあったので、転載させていただいた。

公式ブログより「岩淵神社について」抜粋

鎮座地 長崎県西彼杵郡長与町斉藤郷。岩淵神社は一六三六年十月十三日に創建されました。以後三百七十年にわたりこの地に鎮座しております。

祭神は「八意思金神」(やごころおもいかねのかみ)は高天原一の知恵者と伝えられ知恵の神様ともいわれる神様です。

八意思金神

この神様は、天岩戸の話に出てくる神様で、天照大御神を岩戸から誘い出すために宴会を企画したとされている知恵の神様である。

左は長与川

岩淵神社

この神社は川沿いにあり、鳥居は古くて立派である。参道の石段を上がると、まず祠があった。

岩淵神社

加藤清正神社

加藤清正神社

加藤清正神社

加藤神社と書いてある。祭神は加藤清正である。左わきには石の小さな祠が並び、お稲荷さんとか仏像を祀っている。

岩淵神社

加藤清正神社の変な狛犬

加藤清正神社

加藤清正神社 拝殿

左折して階段をさらに上がると本殿があった。小ぶりだがちゃんとした神社である。

拝殿を拝ましていただいたが、ここもちゃんとしていた。

ただ、白いコピー用紙に印刷されたおみくじの案内が目立つ。どうもおみくじが一押しらしい。

成り立ち

さて、この神社の成り立ちを考える。

祭神の「八意思金神」をまつる神社は全国にあるが、長崎では見たことがなく、なぜ長与にと思った。

ただ長与には三根郷に戸隠神社という神社があり、祭神は天手力男神とある。

まだ行ったことはないが、グーグルマップの写真で見ると、岩淵神社と似た趣がある。

八意思金神も天手力男神も天岩戸関連の神様である。岩淵神社と戸隠神社はリンクしているかもしれないなと思う。

加藤清正(健軍神社)

しかし、下にある加藤清正神社という祠はなぜあるのか。

加藤神社の祠の張り紙にには、加藤が勝とうであるとアピールしている。つまり岩淵神社が「受験の神様」に絞っているのがよくわかる。

まあ岩淵神社の創建は1636年で、時代は江戸時代の前期である。その時代には受験戦争もなかったので、単なる後付けである。

さらに長与町の年表を調べてみると、興味深いことが分かった。

キリシタン禁教の流れだ。

1617年、背教者である長与奉行(朝長四郎兵衛)は大村で布教していたサンフランシスコ会の神父プライペトロ、ラスンプション神父を四月八日諌早領喜々津で逮捕させた。

長与の波止場で人々に説教し領主に書翰をしたためたが二六日夜長与において大村の役人に逮捕され六月一日処刑された。

1622年、九月一三日長与のキリスト教徒五名、馬の供給を拒んだかどによって処刑される。その他長与地方において迫害が多かった。

以上は年表からの抜粋である。

その時代、長与ではキリシタン弾圧の風が吹き荒れていたのだ。

そして、1636年岩淵神社が創建されている。

さらに1646年白髭神社建立、1682年戸隠神社建立と続く。

長崎市内でもそうだが、江戸時代前期に、キリシタンに焼き討ちにあった神社仏閣が作られているケースが多い。

多分、岩淵神社もその一つだと思う。

祭神だが特別な根拠はないのかなと思う。

ただ長与には神功皇后が長与港で「長い夜だな」といったとかという伝説もあるので皇室ゆかりの古事記の神様たちを祀っているのだとおもう。

そんな流れから岩淵神社はできたのかもしれない。

それなら加藤清正神社はといえば、単に清正公の武勇伝が、地元の人たちに愛されていたのかもしれないが、一つ裏読みをしてみる。

加藤清正といえば朝鮮出兵である。朝鮮での戦いの後、朝鮮人を職人として日本に招き入れた事実がある。

これにより、長崎には朝鮮人が職工として住みつくのだが、この朝鮮人たちはほとんどキリスト教の信者になっていて、ついに長崎で教会を作っている程である。

というわけで、キリスト信者の朝鮮人除けとして、加藤清正神社を入り口に作ったのかも。

まあこれは私の想像で何の確証もない。

岩淵神社

また、明治時代、岩淵神社の龍神様をまつるために「長崎くんち」の奉納踊りである竜踊を取り入れた時もあったようだ。

川のそばにあるので龍神様も居たようである。

まさに、地元の神社である。

岩淵神社より