長崎市内の神社巡りはだいぶ続いている。
 
なぜ神社を巡るのかと言えば、その地域の信仰を通じて人々の姿が見えてくるからである。
 
例えば八幡神社がその地域にあれば、武家が多かったとわかるし、稲荷神社なら商人、恵比寿神社や金比羅様だったら漁業などだ。
 
まあ、神様たちの成り立ちも興味があるし、日本独特の信仰の姿も見えてくる。
 
仏寺はあまり行かないのは、そこに政治と金と腐敗が見えるからである。
 
鎌倉時代に様々な仏教の宗派が出来上がったのだが、江戸時代になるとお寺は国からのお墨付きで、住民を取り込み、葬式を扱う事になり収入を増えてくる。そして堕落をするという構図が何度も見えてくるからである。
 
少し厳しい見方だが、仏教自体は素晴らしい思想である。だが政治やお金が絡んでくるとすぐにダメになってしまう。まあこれは神道にも当てはまるかもしれない。
 
ともあれ、そんなうがった見方で神社を回り、その成り立ちを考えるのが趣味なのだが、矢上地域の神社で由来が不明な神社がいくつかあった。
 
本当は由来があるのだろうけど、普通に調べてわからなかった神社を紹介する。
 

矢次郎神社 長崎市田中町

矢次郎神社

矢次郎神社

矢次郎神社

矢次郎神社

安永2年(1773)建立で祭神が観音菩薩2体という所まではわかったが、それ以外はわからなかった。
 
神社なのに観音様という事は、神仏習合の神社だったのだ。明治の廃仏毀釈運動で由来などが吹き飛んだのかもしれない。
 

矢次郎神社

矢次郎神社

 
恵比寿様や、丸い石を祀っている祠がある。この丸い石をなぜ祀っているのかが不明である。
 
矢次郎という名称も人物の名前のようにも思えるが、矢上には八郎川というのもあり、もしかしたら違う事柄があるのかもしれない。
 
町の中にあるので、地域の人たちが綺麗にしているのだろう。田ノ浦地区に伝わる浮立はこの神社に奉納されていたという事なので、この地域の氏神様である事は間違いない。
 

矢次郎神社

 

歳宮神社 長崎市平間町305

歳宮神社

歳宮神社

立派な神社である。
 
入口と社殿前に鳥居がある。正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が、長く延びた流造りの社殿。大きい神木、広い境内の左には地蔵の祠と、神殿横にも地蔵がある。
 

歳宮神社

歳宮神社

その左の祠所には三社大権現の石の祠がある。
 
三社大権とは、東京浅草の浅草寺の事を言う。
 
三社様とは、浅草寺の創建に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前武成(ひのくまのたけなり)の事で、檜前浜成・檜前武成は漁師の兄弟、土師真中知は郷長である。
 
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。
 
その横には光背がある石仏なので多分観音様か。
 
のっぺらぼうの石仏もあるが、おそらく七福神の布袋様だろう。のっぺらぼうに見えるのは長い頭の部分だと思う。
 

歳宮神社

歳宮神社

社殿の横の祠には、山神と書かれている。一般的には農民の神様で、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。
 
この地域が開けていない時代からの石仏を、歳宮神社が出来た時に安置しなおしたと思われる。
 
歳宮神社の歳は年の事なので、時の神様のような名称だが、正確なことは不明である。
 
平成11年の神殿建て替えの記念碑には二百数十年の歴史を刻む「歳の宮」と書かれているので、18世紀半ばに創建したのだろう。
 
日本では江戸時代の後期及び末期(幕末)から明治時代にあたる。
 
もちろん原型はその前からあったと思うので、地域の氏神様だったと思う。
 

歳宮神社

歳の宮という名称
 
歳の宮という名称が不明なのだが、歳宮(としぐう)は長崎県諫早市飯盛町里にもあり、他県にも歳の宮神社というのがある。
 
長崎県松浦市今福町の今福神社(歳の宮)、宮崎県高千穂町にも歳宮神社というのがあり、ここの神社は「としのみやじんじゃ」と読む。
 
宮崎県高千穂町の歳宮神社の由来は、
 
その昔、十社様(三毛入野命(ミケイリノミコト)とその御子神たち)が高千穂神社へ来臨されたことを喜んだ老夫婦が、「だご(だんご)」を作って歳宮へ奉納し、手を合わせていたという。祭神の大年神は「年」が一年の稲の実りを意味することから穀物の神様とされている。
 
とある。
 
長崎県松浦市の今福神社(歳の宮)の由来は、
 
応徳元年(1084)、松浦党党祖・久公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀の大明神の分霊を勧請し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます。その折、村人が梶の葉の上に3個の餅を乗せて久公に捧げたことから、松浦家は梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。
 
いまいち内容が不明だが、神様がやって来たという事と、団子や餅をお供えする事が共通する。
 
矢上の歳宮神社の地域は、農業の地域だったと思われるので、1年の豊作を願ったものかもしれない。
 
また地蔵群を見れば、江戸の香りもするので、歳の宮の神様がこの地にやって来たという事で、歳宮神社と名付けられたのかもしれない。
 
名前のイメージから、長寿の雰囲気もあるし、安らかな1年、実りある一年を願う場所だったのかなとも思う。
 

歳宮神社

 

歳宮神社

現川の琴平神社

琴平神社

琴平神社へ行く道の祠

琴平神社に行く道の祠

現川駅の近くにある、山奥の神社である。結構山奥なのだが民家はある。道の途中に祠があり、中をのぞくと鳥居の絵と、観音様とよくわからない石像が祀られている。
 
なんとなく歳宮神社の石仏と同じかなと思う。
 

琴平神社

琴平神社の鳥居

その祠からさらに山奥に琴平神社がある。道から行く鳥居はトタンみたいだが、神社の正面の鳥居は、石の立派な鳥居がある。
 
昔は山すそから参拝したのだ。
 

琴平神社

琴平神社

琴平神社

琴平神社

この神社は最近建て替えられたようで、いろいろと新しい。境内はベンチが置かれ、公園のようでもある。
 
琴平神社は金比羅の読み替えで、本来は海運業者の神様である。
 
そのわけは金比羅(こんぴら)はインドのクンビーラから来ており、この名はワニの事である。
 
現川は海からかなり離れているので、この琴平神社は現川に由来しているのだろう。
 
現川(うつつ)川という地域名も謎である。
 
夢うつつの「うつつ」なのか、はたまた違う意味があるのか。
 

現川駅

 

矢上

今は矢上と言わなくて東長崎というのだが、1955年西彼杵郡矢上村・北高来郡古賀村・同郡戸石村の3村が合同して西彼杵郡東長崎町が出来、1963年長崎市の市域に含まれることになった。
 
矢上という町名の由来は、神様に矢を奉納する系の伝説があり、そこからだと思うのだが、矢上の川を八郎川というので、八郎為朝伝説が私の持論である。
 
昔この地域は佐賀藩諫早領に属した。
 
中世においては矢上氏の所領であったが、戦国時代には矢上氏が諫早の西郷氏の家臣となっていたからである。
 
現在の田中町やその周辺には矢上氏が築いた山城跡などが残る。
 
近世には、山間において現川焼や瀬古焼などの陶磁器生産が行われた地区である。また、矢上村に隣接した古賀村は、江戸時代に天領となった後、幕末には大村藩領となった地区である。
 
矢上宿は佐賀藩にとって長崎防備の拠点であり、橘湾側からの外国船侵入に備え、八郎川河口部や牧島に台場が設置されていた。
 
長崎市資料 https://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/730000/731000/p027055_d/fil/kousou_siryou.pdf
 
 
矢上はただの農村ではなく、武家のにおいが充満している地域でもあった。
 
そんな土地柄がいろんな神社に影響を与えているかもしれないと思う。
 
神社の由来がわからないのは、私が知らないだけであり、資料がネットに公開されていないだけかもしれない。
 
郷土史家の人たちに期待したい。
 

現川