長与 戸隠神社

 

戸隠神社

戸隠神社

戸隠神社

戸隠神社

場所は長崎県西彼杵郡長与町三根郷530。祭神は天手力男神だ。
 
神社の由緒には太力男神と書かれているが、天手力男神と同じで、岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、アマテラスを引きずり出した、怪力の神様である。
 
創建は天和2(1682)年。もとは薬師如来と太力男神を祀っていたが、明治の神仏混合禁止令により、薬師如来は法妙寺に移され、明治元年(1686)戸隠神社と改名されたとある。
 

戸隠神社 由緒

長与町の村社

長与町の村社の一つで、他は斉藤郷の岩淵神社、岡郷の白髭神社、高田郷の天満宮である。
 
斉藤郷岩淵神社の祭神は八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)で、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。
 
岡郷の白髭神社とは日枝神社の事で、祭神に関しては載っていないが、一般的には猿田彦命とかスサノウ、武内宿禰だろう。
 
高田郷の天満宮は菅原道真である。
 
こう見ると、高田郷の天満宮だけが系統が違う。
 
まあ、天満宮のほんとうの意味は天神さまで、天津神を祀る神社という意味もあるので、そう考えるとすべてが高天原の神様たちである。
 
天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石門別神を副えたとあり、その古事記の話から、長与町の村社の祭神は決めたのかもしれない。
 
神社に格付けが出来たのは、明治政府の意向で、県社、郷社の下が村社となる。
 
だが本来は格付けなどないので、地元の氏神様を祀るのが普通である。しかし、長与町の神社はバランスが取れているので、意図的なものがあったかもしれないと思う。
 
長与町には神功皇后が立ち寄ったとされる伝説があるので、そこから皇孫系を祀るようになったのだろう。
 
そういう事が行われていたということは、長与の地域が昔はもっと栄えていた証でもある。
 

戸隠神社

戸隠神社 拝殿

戸隠神社 拝殿

戸隠神社 神殿

神社の役目

古代からの神社の役目は、村や集落の集会所であり、その地域の中心になっていた。
 
政治のことを祭りごととも言うが、古来政治と宗教は合体していて、信仰以外にも活躍していた。
 
本格的に神仏習合が始まるのは奈良時代以降とされているが、それ以前も仏と神は一緒くただったのである。
 
神社では必ず祭りがあり、祝い事の際には、みんな神社に集まっていたのである。
 
神社の祭りでは、その地域の結婚推進機能もあったと言われている。
 
なので、日本中に神社は数多く存在していたのだ。
 

戸隠神社

肥大する寺院

しかし、江戸時代に生まれた「檀家制度」と呼ばれる仕組みによって、お寺は行政機関の権限をも担うようになり、神社の役目は半減されたのだ。
 
もともと寺院は現代でいう総合大学や大学院のような役割を担っていたといえる。鎌倉時代や室町時代には、大名や上級武士の息子が通うような学校としての機能ももち、これが江戸時代には庶民にも広がり、寺子屋となった。
 
ところが江戸時代になると、島原・天草の乱を機に、キリスト教徒の取り締まりを目的とした「寺請制度」が整えられた。人びとは地域の寺院の檀家となり、出生、婚姻、奉公、修行などで出郷する際や、死亡などで家族構成が変わる度に指定された寺院に届け出ることが義務付けられた。
 
個人化する地域社会における寺院の役割 静岡大学 渡邊 優歌
 
 
こうなってくると、教典も創始者もいない宗教とは呼べない神道は、寺院に押されて静かに形を変えていってしまう。
 
仏教が肥大化すると、様々な弊害が出てくる。
 
権力志向の仏教は、権力者とぶつかり、織田信長の比叡山焼き討ちだったり、明治時代の神仏分離といった事が起きたのである。
 

神ながらの道(神道の別名)

長与の戸隠神社を見ても境内は思いの外広い。
 
昔は村人がここに集まり、自由な交流を図っていたのだと忍ばれる。
 
神道は宗教ではなく、神様への道である。
 
格式張った教典や作法はなく、生活のための信仰の場所である。
 
いま寺院と比べて、寂しくなっているが、決して消えないのは日本の根源的な心だからなのである。
 

戸隠神社 鎮守の森

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