日山神社

日山神社

日山神社

日山神社

場所は野母崎の権現山である。
 
祭神は伊邪那岐尊。
 
30年ほど前に、この神社に訪れた記憶がある。
 
その時もコンクリート造りで趣のない神社だと感じたことを覚えている。
 
現在もコンクリートで作られていて、頑丈そうな社殿だ。
 
ただ、昔の参道は通れなくなっていて、鳥居も壊れている。
 

壊れていて通行禁止になっている鳥居

日山神社

日山神社 拝殿

日山神社

まあ、この高台で、潮風が吹き付ける場所である。コンクリートにしなければもたないのかもしれない。
 
拝殿にかかっている額には日山大神と墨書されているが、その日山の日の字が、丸にチョンだ。
 
明らかに太陽をイメージしているのだと思った。
 

展望台の烽火台

創建だが、この場所に670年烽火を置くと記述がある。確かに日山神社のそばの展望台には大きな狼煙台がある。ここの説明板には寛永15年(1638年)幕府の遠見番所が設けられたとある。
 
つまり、この場所は古代の長崎の見張り台だったということだ。
 
871年、日の山神社創建。
 
神社が建てられたのは、昔からこの地に信仰があり、それで神社としての形をとったのだ。
 
野母崎の歴史は極端に古い。
 
658年、樺島の熊野神社創建、同じく脇岬に709年円通寺、観音寺創建である。
 
記録だけを言えば、樺島の熊野神社は長崎で一番古い神社である。
 
西暦600年代といえば、604年十七条憲法制定、630年遣唐使、645年乙巳の変(大化の改新)、そして663年白村江の戦い。
 
日本は激動の時代だったと言える。
 
そんな時期、現在の長崎付近は彼杵の荘と呼ばれる荘園地域だった。
 
長崎、佐賀は肥前と言うが、火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)から、肥前肥後と別れたのが、7世紀末までと言われている。
 
そんな時期に、野母崎は活躍していたのである。
 

日山神社という名前

日山神社と呼ばれた理由に、烽火=「火の山」説と、「陽の山」説があるようだが、江戸時代では肥の御崎と呼ばれている。
 
肥前、肥後を合わせて肥国とよんでいた。だが最初は火の国だった。
 
野母の伝説に、
 
山上の木立ちの中に、火山権現の祠がある。夜になると、山の頂に燈火が現れその光は尋常のものではない。人皆これを霊異とした。外国の船が入津するに当たって、この燈火を目印にした。
 
とある。
 
日山神社は火山権現の祠が最初だったのである。
 

長崎名勝図絵 巻之二下 南邊之部 164海門山(文献叢書 142~146頁  所在地 長崎市野母町) 長崎の南七里 野母浦の高山。他の山に接せず、これだけが高く聳えているので、登って見ると、周囲が果てしなく見渡せる。

展望台からの風景

祭神

祭神は伊邪那岐である。
 
イザナギ、イザナミは夫婦だ。少し変だなと思ったら、脇岬の熊野神社の祭神が伊邪那美だった。
 
なるほど、日山神社と熊野神社で一組なんである。
 
しかしなぜ別々に祀ったのかは不明だ。
 
想像だが、イザナギとイザナミは死別である。イザナミは亡くなって黄泉国に行く。
 
とすれば、日山神社は常世で、脇岬は黄泉国だということだろうか。
 
脇岬には古い観音寺がある。
 
名前からしても、野母が有り、その脇の岬なので脇岬と呼ぶ。
 
なので対比としていたのかもしれない。
 
野母崎は古代長崎を象徴する場所である。
 
私も前に野母崎をしつこく調べていたことがある。
 
よろしければ御一読ください。
 
長崎の原風景(3) 野母崎の葛城の神と土蜘蛛
 
長崎の原風景(4) 航海・漁業の守護神「娘媽(ノーマ)」が野母崎の語源
 
長崎の原風景(5) 古代長崎で繁栄してい野母崎の宮廷文化