銅座稲荷神社

銅座稲荷神社

銅座稲荷神社

銅座稲荷神社

銅座稲荷神社

銅座稲荷神社

銅座稲荷神社 神殿

銅座稲荷神社

銅座稲荷神社からの風景

創建は1743年。現在の鍛冶屋町から、火除の神様として銅座に移転される。
 
銅座の飲み屋街なので、商売繁盛の稲荷神社は強く信仰されたと思う。
 
伝承
1.明治の初めの頃、銅座町付近に大火があったとき、お稲荷さんが神社の屋上に現れ、白い御幣をお振りになって類焼を免れた。
 
2.日露戦争で銅座町から23名が出征したとき、お稲荷さんは町内の2人のお婆さんに、「わしは出征した町内の人達の守護にこれから戦地に出向くから留守の間を頼むぞよ」とお告げになった。すると、本当に銅座町23名の出征軍人が全員無事に凱旋することが出来たという。
 
 
いかにもと思うご利益だ。
 
ビルの五階にある稲荷神社で有名で、実際にお参りしてみる。
 
江戸時代の稲荷社のようで、the稲荷という建物である。
 
ビルの横の街灯の柱に、永見徳太郎通りと書かれている。
 

銅座の殿様

永見徳太郎通り

永見徳太郎は「銅座の殿様」と呼ばれた。
 
永見家は貿易商、諸藩への大名貸し、大地主として巨万の富を築いた名家で永見家の6代目が徳太郎だ。
 
徳太郎の大叔父である永見傳三郎は、国立第十八銀行(現在の十八銀行)の初代頭取であり、明治前半の長崎の経済界を支えた人物。
 
豪商であり市中を乗馬で闊歩して「銅座の殿様」と称された彼は竹久夢二、横山大観、岸田劉生、黒田清輝などの画家をはじめ芥川龍之介、菊池寛など数多くの中央の文人と交流を持ち、彼らが長崎を訪れた際には南蛮屏風や工芸品などの異国情緒あふれる蒐集品で埋め尽くされた永見邸でもてなした。
 
また地元長崎の文人・画家とも関わりが深く、長崎医学専門学校教授として赴任していた斉藤茂吉や、古賀十二郎、山本森之助、渡辺与平・文子、栗原玉葉、岡吉枝などと交流を持った。
 
敗戦後は窮乏し、心身を損なった彼は外出した先で妻への遺書を投函したのを最後に失踪。享年60歳。
 

永見徳太郎

 
 
最後が悲しいが、すごい人物が長崎にいたのである。合掌。