大瀬戸町 長濱神社 六地蔵と大瀬戸の歴史

大瀬戸 長濱神社

大瀬戸 長濱神社

大瀬戸 長濱神社

大瀬戸 長濱神社

長崎県西海市大瀬戸町瀬戸西濱郷55-1

大瀬戸町の広い海岸道路の右側の切り立った崖の前に一之鳥居がある。

真っ白い鳥居から右側の石段を登る。急な石段を上り切ると広い境内があり、左手には複数の忠魂碑がある。

拝殿は簡素だが綺麗だ。

祭神は事代主命。いわゆる恵比寿様である。

入り口に六地蔵の説明板があり、長浜大明神の祠を建てたとあるので、最初は長浜大明神だったのだろう。

拝殿の中には天皇陛下奉祝の垂れ幕がかかっていてシンプルだ。。

忠魂碑が境内に複数あるので、昔から地域の氏神様だったのではないかと思う。

祭神は奥の祠の神殿に鎮座している。

作りもしっかりしているし、新しく作り変えられたのだろう。

大瀬戸 長濱神社 忠魂碑

大瀬戸 長濱神社

大瀬戸 長濱神社

大瀬戸 長濱神社

大瀬戸 長濱神社 神殿

大瀬戸 長濱神社 拝殿

ネットで検索しても、大瀬戸の長浜神社の情報は殆どない。まあ、祭神が事代主なので、漁の安全を祈願して祀られた神様である。

神殿は祠だったので、最初はあの祠だけだったのだろう。いつ頃建てられたは不明である。

瀬戸の六体地蔵

瀬戸の六体地蔵

瀬戸の六体地蔵
当地蔵尊は、瀬戸西浜郷の、国道202号線沿いの峡戸(瀬波戸)に奉祀されている。本尊として、六体地蔵が岩壁に彫り付けられているが、この地蔵尊は、桜井宰相兼繁卿の3男といわれる、初世院円順が彫り付けたものといわれる。
円順は、萱瀬村(大村市)の石場郷にある、熊野大権現の宮司であったが、その後、実子の教順に宮司を譲り、自らは領内(大村藩)を巡歴し、各地の破損した神社の再建に努めていたが、その折に瀬戸を訪れて、長濱大明神の石鳥居を建てたり、石段を築くなどしたといわれるが、当時、甚だ狭くて通行に困難していた狭戸の海岸に石垣を築き、新道を造って人々の難儀を救ったという。その折円順は、それまでこの地で亡くなった者の霊を祀り、あわせて以後の安全を祈願するため、狭戸の岩壁に、六体地蔵を彫刻したと伝えられている。
瀬戸に住むこと7年、円順は東川棚に移り住み、かねてから信仰していた岩屋大権現の神殿を、岩窟をうがって造り、30段の石段を築いたといわれる。円順はその後、再び萱瀬村に帰り、88歳で世を去ったという。
以前は、入江の県道沿いにあった六体地蔵は今もなお、交通頻繁な国道沿いに鎮座し、交通安全を願っている。

瀬戸の六体地蔵

瀬戸の六体地蔵 まるにひとつひきの家紋 足利氏の二つ引き、三浦氏の三つ引きが有名でその子孫に多く使われたため武家に多い家紋

瀬戸の六体地蔵

結構長い説明である。

このあたりに広い道路ができたのは近年で、当時、甚だ狭くて通行に困難していた狭戸の海岸に石垣を築き、新道を造って人々の難儀を救ったという。

その折円順は、それまでこの地で亡くなった者の霊を祀り、あわせて以後の安全を祈願するため、狭戸の岩壁に、六体地蔵を彫刻したと伝えられている。

長浜神社の左側に、祠が建てられている。

中を見させていただいたが、岩肌にかすかに地蔵の跡らしきものが見えるが、全容はほとんどわからない。

大瀬戸町郷土誌には、円順が大村に来たのは元禄9年(1696)であるが、六体地蔵は、天和2年(1682)前に彫刻されてあるので、円順が彫刻したものではないといわれる、とある。

六地蔵

本来、六地蔵は衆生の苦悩を救済するという六種の地蔵菩薩。

地蔵菩薩は、釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされる。ウィキペディア

ただ道端で見る六地蔵は道祖神信仰とつながって地域を守る存在として建てられていることが多い。

道祖神とは厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神である。それが拡大解釈され、旅の安全を守る神様として定着している。

この場所に六地蔵があるということは、やはり危険な場所だったのだ。

大瀬戸町瀬戸西濱郷

西海市大瀬戸町は、かつて大村藩の支配下に置かれ、港町として栄えていた。

港町だけではなく、石炭採掘や捕鯨を盛んに行なっていた松島村、薪炭生産などを行なっていた雪浦村、平家の伝説にはじまる多以良村など結構話題も多い。また大瀬戸町のホゲット石鍋製作遺跡(国指定史跡)は11箇所もの製作遺跡が集中している場所で、日本における最大規模の生産地であったとされている。

私がすごく興味を持ったのが瀬戸(大瀬戸町)や崎戸島、蛎浦島に存在していたという家船(えぶね)の話だ。

西海市大瀬戸町・歴史民俗資料館の家船(えぶね) アトリエ隼 仕事日記 http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51254888.html

全長10メートルほどの船の中に、食物や衣服、家財一切を乗せ、磯もぐりや沖もぐりなどの漁法で、網を使わず鉾突きで魚をしとめて暮らしていたらしい。

このように舟上で生きる家船は九州東西の沿岸や瀬戸内海に存在したそうだが、大村氏領内の家船は数百年に渡り領主と特別な関係を保ってきたという。

まさに海族である。

瀬戸内海には村上水軍、松浦には松浦党という人たちがいた。長崎の大瀬戸にも海賊ではないが、海に住む一族がいたという事は、いろんな文化の交流が行われていたはずである。

現にこんな記録もある。

1474年(文明6)、領主・大村純伊(すみこれ)が有馬貴純(ありまたかずみ)に攻められ、中岳城の合戦において敗れました。敗走する純伊を救い、敵の目をくらましながら玄海・加々良島(佐賀県)の渋江氏のもとまで連れて行ったのが家船の人々でした。

大村氏の領地は有馬氏の支配下に置かれてしまいますが、家船の人々は密かに旧領地と連絡をとるなど水面下で純伊を助け、旧領地の回復に多大な貢献をしました。

実に面白い。

長崎は山と海で出来ていて、なんの文化もない地域だと思われている節があるが、海をメインに暮らしていたとなると、その内容はガラリと変わってくるのだ。

あと一つ、大瀬戸といえばキリシタンである。今回はキリシタン関係のものが出てこなかったが、恐らくたくさんあるのだろう。

いつか調べたいと思う。

 

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