多良見 鹿神社 ごちゃまぜに片付けられた神仏達

多良見 鹿神社

長崎県諫早市多良見町木床1012

多良見 鹿神社

多良見 鹿神社 鳥居の神額には金比羅宮

移転 顕彰の碑

多良見 鹿神社 境内

場所は喜々津の湾内沿岸にあり、前の島公園の南側の杜の中にある。入り口は舗装された広い道路側にあり、
少し石段を上がると、鹿神社と書かれた一の鳥居があり、社殿の前の鳥居には金比羅宮と書かれている。

境内右手には石碑や記念碑、砲弾の碑がある。

神殿は小ぶりで、拝殿の扉はしまっていたので中を見ることは出来なかったが、隙間から中を伺うことが出来た。

中は2つに仕切られていて、左側の神棚には弘法大師、観音菩薩が祀られていて、右手の神棚には金比羅宮としか大明神が祀られている。

ネットで20年前のブログに、「左側が観音堂で、中央には諫江八十八ヶ所霊場讃岐国高照院の弘法様が祀られている」という文章を見つけた。

昔は小さな建物に仕切りがあり、長屋のように左が観音堂で、右手が神社だったようだ。

鹿大明神(多良見町木床名船津)
http://fwdnet.web.fc2.com/jin2/konpi1.html

諫早の喜々津はどんどん整備が進んでいて、この神社も整備済みなのだ。

まあ、撤去しなかっただけでもいいとしたい。

志賀(鹿)神社に関して多良見町郷土誌の記述

「この神社は舟津の丘の突端にあるが、今は鹿神社と書いてある。祭神はもとは志賀大神(ワダツミ;日本神話の海の神様)、屋船豊受大神(ヤフネトヨウケノオオカミ;食物の神様)である。
今から300年ほど前、貞享二年(1685年)二月十日吉祥日の建立である。志賀神は漁民の祭る船上安全を守る神とされている。」

金比羅に関しての記述がない。

この場所は海の近くなので、最初は金比羅宮の場所だったのじゃないかな。

そこに舟津の丘にあった鹿神社が移され、諫江八十八ヶ所霊場も寄せられたと思う。

長崎市内も開発により、元あった神社が遠くに移転したりしていて、なぜこんな場所に神社があるのかと不思議に思うこともある。

この鹿神社も、鎮守の杜はこじんまりと整理され、公園の一角になってしまっている。

町が整備され、拡張されていくことはいい事なんだが、神社や仏のお堂が一箇所にまとめられたりすると、その由来がわからなくなってしまう。移設する時は、やはりその由来をどこかに残してほしいものだ。

鹿神社 神棚

鹿神社 神棚

鹿神社 神棚 鹿大明神

鹿神社 神棚 金比羅宮

 

鹿神社は志賀神社の事だが、別に間違えているわけではない。

志賀神社は日本中にあり、総本山は福岡県福岡市東区志賀島にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)。

志賀海神社 拝殿

とても有名な島の神社である。

志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したという。
社名「志賀海」は、現在「しかうみ」と呼称されるが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説がある。

まあ、かなり古代の話である。

つまり、「しが」の読み方は変化していて、漢字の表記もいろいろだったようだ。なので多良見の鹿神社の表記もあったのだ。

多良見の志賀神社の祭神は志賀大神、屋船豊受大神と書かれている。

福岡の志賀海神社の祭神は、「綿津見三神(わたつみさんしん)」といい、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)といい、住吉神とともに禊で生まれた神とされている。

志賀大神は綿津見三神の事である。

日本神話に出てくる海の神様だが、3人の神様でワンセットになっている。ここの綿津見三神、住吉三神、宗像三女神である。不思議な話と思う。この話はいつか書きたい。

豊受大神

もうひとつの屋船豊受大神は、伊勢神社の下宮の豊受大神が有名で、食べ物の神様である。

また家屋の守護神とされていて、家を建てるときの棟上げ式の祝詞に出てくる。

とても位の高い古の神様を鹿神社は祀っていたのである。

舟津の丘の突端は、今調べても道が怪しいので、開けている多良見に持ってきたのだろう。志賀大神は海の神様だから、なんの問題もないのだ。

これで鹿神社の由来はわかったが、なんか釈然としない。

この神社の神仏のまとめ方が、まるで宗教の違いを考えていないからである。

神社名の違う鳥居、神仏混合というより、とりあえず並べただけの神棚。せめて説明文くらいはしっかり掲示しないと、関心のない人だと「へぇー」「とりあえず拝んどこうかな」で終わりそうである。

都市開発に古い神社や仏群は邪魔なのかも知れない。しかし、それは今の考え方で、何十年後にはなぜちゃんと分けなかったのか紛糾するかも知れない。

考え方や様式には流行り廃れがある。つまり今がベストではないということを、開発関係者は肝に銘じてほしい。

諫江八十八ヶ所は江戸時代からスタートしているので400年以上昔の制度で、鹿神社は1685年からなので300年以上昔からあるのだ。その時間の重みを今の価値基準で、片づけてしまうことに行政の危うさを感じるのだ。

神罰と仏罰が当たらなければいいけどと、心配になってきた。

鹿神社

 

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