琴海尾戸町 八幡神社

 

尾戸小学校

八幡神社

八幡神社 参道

八幡神社 二の鳥居

場所は琴海の尾戸半島の真ん中ぐらい、大村湾側の山の中にある。

2018年3月末に閉校した尾戸小学校の上といったほうがわかりやすいだろう。

一の鳥居は木々に隠れていて外からは見えない。その鳥居をくぐると緩やかな坂の参道が林の間にあり、その路傍に灯籠や石碑が多数置かれている。

道なりに二の鳥居があり、石段を登ると三の鳥居で、その先は広い境内に出る。

境内の周りに記念碑や由緒が書かれているらしい石碑があったのだが、風化して読むことが出来なかった。

その中に創建200年記念碑があった。という事はこの神社は1820年前後に建てられたようである。

八幡神社

八幡神社

八幡神社

八幡神社

この時期は江戸時代で、1808年 (文化5年)のフェートン号事件、1825年 (文政8年)には異国船打払令など、長崎は外国とのトラブルが起きている。

この地区は大村藩の領地である。少し調べてみる。

水田耕作に向かない地形の多い大村藩は、薩摩藩と並んで18世紀前半にサツマイモを日常食材として導入した。そのため享保の大飢饉での被害も比較的軽微で済んでいる。

サツマイモか。なるほど。

神社の下にある尾戸小学校の校章は、サツマイモの花弁をモチーフにしていたとあったのを思い出す。

その時代の大村藩は、第10代大村 純昌(おおむら すみよし)だと思われる。

財政再建を目指して藩政改革を行なうが失敗し、かえって財政窮乏を促進した上、家臣団の反発も招いた。このため、倹約や定免制の採用、他国製品の排除と自国製品の保護、生産化奨励などを行なっていくらか成功させている。

藩政はあんまりうまくいかなかった殿様のようだ。

残念ながら歴史を調べても神社の設立の由来は推測できなかった。

八幡神社

八幡神社 拝殿

八幡神社 境内

八幡神社 神殿

八幡神社

八幡神社

社殿は、一般の家のようで、神社らしくない。

拝殿にはゴザが敷かれ、日の丸と太鼓が目立つ。厳粛さはないが、集会等に使われていたような雰囲気がある。

神殿を見てみると、かなり立派な神殿である。

石の鳥居が3つあり、多数の記念碑や、慰霊碑を見れば、昔は立派な神社だったのかと想像する。

境内にはもう一つちゃんとした祠があり、やはりこの神社は、この地域の守り神だったと思う。

祭神は誉田別命。八幡宮なので、武家が主導で神社が建てられたと思う。

しかし、現在周りに人が少なくなってしまえば、神社を世話をする人もいなくなるわけで、荒んだ感じになってしまうのはしょうがないだろう。

今回はネットで情報が全く得られなかった。

この神社もいつか忘れられてしまうのだろう。しょうがないとはいえ残念である。

八幡神社

八幡神社からの風景

 

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